心地良いざわめきの中、エッジは独特な味の酒を少しずつ口に含んでは、鼻から抜ける香りを楽しんでいた。

パブ・ラリホー。

なんともふざけた名前のこの酒場が、エッジは好きだった。飾り気の無い店内にドワーフたちの愉快な会話が飛び交い、埃っぽさすら清々しい。

エッジは手元のグラスを空け、新たに一杯同じ物を注文した。これで何杯目だったか。一人で飲んでいてもなかなか時間が進まず、次の一杯を飲み干したらどこか別の場所で暇を潰そうかと、そんな風に思い始めていたその時だった。店の扉が勢いよく開いた。

目に飛び込んできたのは、場違いな緑色。

その緑──リディアは、どこか焦った様子で店内を見渡す。何故彼女がこんな場所にいるのか不思議に思っていると、はたと視線がぶつかった。

エッジは思わず「え」と声を発した。リディアが肩を怒らせながらこちらに向かって歩き出したからだ。訳が分からず、エッジは今日一日の自分の行動を高速で振り返った。

何もしていない。今日は何もしていない筈だ。

考えているうちに、リディアは目の前まで迫っていた。彼女の気迫が伝わったのか、先ほどまでの騒がしさが僅かに失われ、人々の視線がこちらに集まり始めている。

エッジはやや圧倒され一瞬言葉を見失ったが、彼女の顔を改めて見てハッと息を呑んだ。

「……なんて顔してんだ、お前」

まるで何時間ぶりかに母と再会した迷子のようだった。出会えたことにホッとし、はぐれたことを責める。安堵と怒りが混ざったようなあの表情だ。

怪訝に思いながらも、エッジは隣りの席をポンポンと叩いてそこに座るよう促す。リディアが無言のまま腰掛け、エッジが周りの者たちに対して何でもないというように軽く手を上げたのを合図に、酒場は再び元のざわめきを取り戻した。


リディアは雑踏に呑まれてしまいそうなほど、小さく大人しくなっていた。エッジは尚も思考を巡らせてみたが、やはり彼女のこの表情に心当たりは無い。

仕方なくうつむいたままのリディアに穏やかな声で話し掛けた。

「一人で来たのか?」
「エッジがここにいるって聞いたから」
「お前みたいなのが一人で来るような場所じゃねーぞ」
「平気よこれくらい」
「ガキはもう寝る時間だろ。それとも一人じゃ眠れないってか?」

リディアはムッと口を突き出し、再び黙り込んでしまった。エッジはなんとなく首のあたりに手をやり、天井を見た。どうも調子が狂う。

ことりとテーブルで音がした。先ほど注文した酒が運ばれて来たのだろう。

「お前も何か飲むか? お子ちゃまはジュースみたいので――」

言いながらリディアの顔を見ると、彼女はこともあろうに運ばれたばかりの酒をコクコクと音を立てて飲んでいた。酒に強いエッジでさえ、少量ずつ飲むような酒だ。

「あ、おい! あー……」

たっぷりと注がれていたはずの琥珀色の液体は、あっという間に氷だけを残して消えていった。見事な飲みっぷりを披露した当の本人は、グラスを置くと同時に「うえー」と渋い顔で舌を出す。

エッジは今度こそ本当に、何がなんだか分からなかった。

「何やってんだよ、お前。おっさん水くれ、水」

はいよーと出された水を、リディアは夢中で喉に流し込んだ。飲み込みきれず口の端から零れる水を、エッジは呆れ顔で眺める。

その全てを飲み終え、リディアは息継ぎをするようにプハッと音を立ててグラスから口を離した。

「びっくりした……」
「そりゃこっちの台詞だ」

こんな時間に会いに来たかと思えばどうもご機嫌ななめだし、そのうえ突然グラスを奪い取って一気飲み。なんなんだこれは。

「お前がそんなんなった原因は何だ? やっぱ俺?」
「そんなって、どんなよ」
「不機嫌っつーか、焦ってるっつーか」

そこでリディアはふっと悲しげな顔をして目を伏せた。

「エッジ、いなくなっちゃうんじゃないかと思って」
「俺が!? なんでまた」
「エッジに、おやすみって言われなかったから、かな」
「……相変わらず、分かんねーな」

リディアの顔に少しずつ色が付き始めている。ちょうど手持ち無沙汰を感じていたので、エッジは自分の酒と、リディアの為にノンアルコールの飲み物を注文した。

「で、俺はちゃんとここにいる訳だけど」
「だって、エッジがのん気にお酒なんか飲んでるから」

こっちの気も知らないで、という言い方だった。のん気に飲んでいた覚えは無いのだが。

「そりゃ悪かったな」
「ねぇ、エッジはいつも、そうやって自分ひとりで決めちゃうの?」
「……セシルから何か聞いたのか?」
「セシルもローザも、ちゃんと話してくれるよ」

うつむき語るリディアの、長い睫毛の影が僅かに揺れた。エッジはカウンターの奥に目をやる。早く酒が欲しい。

「なんか寂しいじゃない、そういうの」
「俺は別に寂しくなんかないけど」
「私が寂しいの!」

リディアは眉を吊り上げエッジを見た。

「そうカリカリすんなって。眉間にシワが出来ちまうぞ」
「真面目に話してるんだから、茶化さないで!」
「はいはい。おっかねーなぁ」

ようやく飲み物が運ばれてきた。エッジは早速一口飲み込み、リディアも味見程度に口を付けた。

「エッジは、カインのこと嫌い?」
「あ? 別に好きでも嫌いでもねーよ。つかアイツ、何考えてるかよく分かんなかったし」
「私は好きよ」

ぶっとエッジは噴き出した。咳き込むエッジの横で、リディアはグラスに添えた自身の手を眺めている。目はトロンとして首まで赤い。

「お前、今何て……」
「セシルのこともローザのことも、大好き」
「あ、あー、そーいうことか」
「だからね、私なりにいろいろ考えて」
「……なぁ、俺の名前が出てないんだけど」
「それでね、その、えっと……」

リディアは考えあぐねた末に絡まってしまった頭を、必死で整理している様子だった。うーんと唸って首を傾げる様は、まるで子供だ。

「とにかく、エッジが何をどう考えてるか、もっとちゃんと知りたいの」

思いがけない言葉に、エッジは目を丸くした。どういうつもりでそんなことを言ってるんだ。こっちの気も知らないで。

エッジの反応を気にとめる様子もなく、リディアは飲み物を美味そうに飲んでいた。息をするたびに肩が大きく上下し、見ているこちらが眠くなってしまう程ゆっくりと瞬きをしている。相当酔いが回っているのだろう。

酔ったうえでの発言なのだ。エッジの胸に湧いたのは、得体の知れない悔しさだった。

「そっくりそのままお返ししてーよ」
「え?」
「いや、こっちの話」

自分はリディアのことを何も知らない。ついこの間痛感したそのことを、半ば根に持つように胸にしまい込んでいたのだ。

その想いがつい口を突いて出た。醜い感情だと思った。

「それよりお前もう帰れよ。心臓バクバクいってんだろ」

エッジはそう言って、酒に逃げようと手を伸ばす。グラスに指が触れようとしたその時、突然胸元を引っ張られ、上半身の向きを変えられた。

目の前にリディアの顔がある。彼女は下唇を突き出し不機嫌を露にしながら、ぐいとエッジの胸ぐらを掴んでいた。

「またそうやってはぐらかす! 普段は無神経なことをベラベラ喋るくせに!」
「うわ、絡み酒かよ! タチ悪りーな」
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言ったらどうなのよ! 王子だかなんだか知らないけど!」
「分かった! 分かったから離せ! 近けぇ!」

身を乗り出し迫るリディアを、エッジは必死でなだめた。目が座っている。危険だ。

リディアは急にヒステリックになったかと思うと、再び寂しげにうつむき呟いた。

「……私だって、もう子供じゃないんだから」

掠れた声が胸元に落ちる。そのまま前のめりになったリディアのおでこが肩に当り、押し付けられる重みと首の後ろから香り立つ匂いに、甘い痺れが背中を走った。

目の前で小さく震える細い肩が、温もりを求めているように見えた。無性に触れたくなり、エッジは導かれるように手を伸ばす。しかし彼女に触れようとした寸前、その手を咄嗟に引っ込めた。


簡単に触れてはならない。そう思った。

初めての感覚だった。


胸が押さえつけられたように苦しい。やがてリディアの手がエッジの服から離れた。

「……るい」
「あ、え?」
「……きもちわるい……」
「はぁ? マジかよ!」

ゆっくりと上げられたリディアの顔からは先ほどまでの赤みが消え、ほのかに青白くなっている。

リディアはエッジの胸元から手を放し立ち上がると、ゴムのようにふにゃふにゃと体を揺らしながら歩きだした。出口に向かおうとしているようだ。エッジは慌てて彼女に声を掛ける。

「おい、どこ行くんだよ。大丈夫か?」
「部屋……帰る……」
「とりあえず店のトイレにでも――」
「ううん……部屋に帰りたい」
「いーから! 無理すんなって」
「やだ。帰る」
「……お前って、変なトコで頑固だよな」

ちらと時計を見た。少し早いが仕方ない。エッジはポケットから金を取り出し、無造作にテーブルへ置いた。

「おっさん、勘定ここに置いとくぜ! 釣りは明日取りに来るから、ごまかすんじゃねーぞ」

カウンターの奥から「ラリホー」と声が飛んだ。よく分からなかったが了解の意味と捉え、エッジは千鳥足のリディアを追った。

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