宿屋に着いた頃には、リディアはすでに半分眠っているような状態だった。それでもなんとか自分の足で立ててはいたので、エッジは片腕を掴んで誘導するだけの、まるで色気のない体勢で彼女を支えていた。

抱きかかえてしまった方がお互い楽なのだろうが、そうしてしまってよいものかエッジには判断がつかない。彼女を女として扱うことに、躊躇いのようなものを感じていたのだ。今掴んでいるのも女をあまり感じない骨ばった肘の辺り、それも服の上からだった。まるで自分らしくない行動に、なんとも情けない気分になる。

ようやく女部屋の前に着き、エッジはリディアに向かって手を突き出した。

「リディア、鍵。持ってんだろ」
「ん……」
「ん、じゃなくて、鍵。部屋着いたぞ」
「んー……」
「……ダメだこりゃ」

忍者は便利屋じゃねーんだぞ、と呟きエッジは詠唱の構えをとった。

「あらよっ……と、あれ?」

得意の壁ぬけの術を使おうとするや否や、扉の向こうに人の気配を感じた。カチャ、と控えめな音と共に扉が小さく開く。

覗いたのは、柔らかく波打つ黄金色の髪。

「ローザ、何やってんだよこんなところで」
「あなたこそ、どうしたの……って、リディア!?」

ローザはエッジの隣にあるリディアの青白い顔を見て、驚きの声を上げた。

「とりあえず中入っていいか?」
「いいけど、大丈夫なの?」
「ああ、悪酔いしただけだ。水貰えるとありがてーんだけど」
「今汲んでくるわ」

エッジは話しながら、リディアを連れ奥へと進んだ。自分の部屋と同じ作りの一室にもかかわらずどこか女性らしさを漂わせるこの空間に、不謹慎にも胸が高鳴る。

う、と小さくリディアが唸った。下衆な心を見透かされたかと、一瞬どきりとした。

「辛いか? 辛いなら我慢しないで吐いちまえよ」

リディアは申し訳なさそうにこちらを見上げる。見るからに辛そうな表情だ。

「腹ん中の物全部出しちまえばスッキリするぞ」
「……だけど、みんなに迷惑かけちゃうかもしれない」

彼女の声は辛うじて聞き取れるくらいの小声だった。

「んだよ、大袈裟だな」
「それとも、私がお腹にため込んじゃったから、こんなことになったのかな」
「……リディア?」
「私が、もっとちゃんとカインと向き合ってれば――」
「いいから座れ。な?」

リディアをゆっくりとベッドに腰掛けさせ、エッジは懐から小さな包みを取り出した。念のため持っていた漢方薬だ。

程なくしてローザから水の入ったコップを受け取ると、薬と共にリディアに差し出す。リディアは渡された薬を素直に飲み、そのままくたりと体を横たえた。

ローザがリディアの顔を心配そうに覗き込みながら、優しく毛布をかぶせる。そして、どこか責めるような視線をエッジに向けた。

「言っとくけど、俺が飲ませたんじゃないぜ」
「じゃあどうして?」
「知らねーよ。突然来て一気飲みしやがった」
「リディアが!?」

ローザは、信じられないというように目を丸くした。

「酒場に行くって書き置きがあったから、てっきり暇を持て余したあなたが強引に連れて行ったのかと……」

ローザは再びリディアの顔を見た。リディアは目を閉じたまま規則正しく呼吸している。

「信用ねーな、俺」
「信用してなかったら、すぐにでも迎えに行ったわ。でもリディア、どうして酒場になんか行ったのかしら」
「俺が、おやすみって言わなかったかららしい」
「どういうこと?」
「さあ」

エッジは肩をすくめ軽く溜め息を吐いた。

困惑ぎみに首を傾げながら、ローザはもう一つ水の入ったコップを差し出す。こちらはエッジのために注いだもののようだ。軽く礼を言い、立ったままゴクリと飲んだ。いつの間にか喉がカラカラになっていた。

「そんで、あんたはなんでここにいるだ?」

エッジが戻ると宣言した時刻まで、まだ優に時間がある。女は心細い時、恋人のそばにいたいものだろうとエッジは思っていた。

「俺がリディアに変なことしてないか、心配になったんだろ」
「……違うのよ」
「じゃあセシルと喧嘩でもしたか」

ローザは何も言わず小さく首を横に振った。

「怖くなっちゃったの。セシルと二人きりでいるのが」
「怖い?」

およそ彼女の言葉とは思えない台詞に、エッジは自分の耳を疑った。

彼の知るローザは、できるだけセシルのそばで彼を支えたいと願うような女性だった。もちろん周囲への配慮を忘れるようなことはなかったが、そんな彼女の健気さは充分すぎるほど伝わることもあり、エッジは時々羨ましさを通り越してむずがゆさすら感じていた。

そのローザが、セシルと二人きりになるのが恐いというのだ。

ローザは救いを求めるような目でリディアの顔を見ている。エッジは水を飲み干しコップを置いた。不安とも焦りともつかない感情が腹の底から込み上げた。

「あんたも疲れてるんだろ。リディアも眠ったみたいだし、ゆっくり休みな」
「帰るの?」
「いつまでもこんな所にいたら、セシルに怒られちまう」

そうは言ったが、部屋に着いた時のリディアの様子が気にかかり、後ろ髪を引かれる思いだった。リディアが自分を引き止めているような、そんな気までしていた。

ローザが「あら」と声をこぼす。視線の先に目をやると、毛布からはみ出たリディアの手が自分のマントを掴んでいるのが見えた。リディアに引き止められたと思ったのは、あながち気のせいではなかったらしい。

軽く引っ張ってみたが離さない。徐々に湧き上がる熱を抑えることができず、エッジはもごもごと口を動かした。リディアは目を閉じ横になったままだ。

「おいコラ、離せって」
「ずいぶんと懐かれたものね」
「茶化してねーでなんとかしてくれよ」

マントを縦に振ったり横に振ったりしてみるも、その手はびくともしない。

背後で衣擦れの音がする。ローザが薄手の上着を羽織っていた。

「ちょっと出てくるわ。リディアのことお願いね」
「どこ行くんだよ。俺とコイツ二人きりにしていいのか?」
「お返しよ。それに言ったでしょ? あなたのこと、信用してるって」
「勝手に信用されても困るんだけどな」

エッジは口をとがらせ頬を掻いた。実際、絶対に何もしないと言い切れるまでの自信もなかった。

「五分で戻るわ」

扉を開ける直前に、ローザはそう言い放った。

「……全然信用してねーじゃねーか」

パタンと静かな音を立てて扉が閉まる。居場所もないのに置いていかれた。他人の家に一人残された気分だった。

しかし。

ベッドの上でもぞもぞと毛布が動いた。そこには確かにリディアがいる。

寝ている相手と二人にされて、一体どうしろと言うのだろう。エッジはしばしその場で立ち尽くす。マントを脱いで出て行くことも考えたが、エッジはとりあえずそこにとどまることにした。どうせ五分しか許されていないのだ。

ローザのベッドに座るのは躊躇われ、直接床に腰を下ろした。リディアの顔と同じ高さになったが、頭まで毛布を被る彼女の寝顔は見ることができなかった。

代わりに目の前にある白い手を見つめた。鞭を扱っているためか、小さいがしっかりとした手だ。その手が、寝ているとは思えないほど力強くマントを握っている。

少し前にも彼女はこうしてマントを掴み、ありがとうと言った。ごめんね、とも。

あの時、リディアが自分の過去について語ろうとしたあの時、彼女の話を黙って聞いてやるべきだったのだろうか。無理やりにでも吐かせて腹の中の物を全て出させてしまえば、とっくに楽になっていたのかもしれない。

「エッジ」

呼ばれた声で我に返った。いつの間にかリディアが頭を上げ、寝ぼけ眼でこちらを見ていた。

「ああ、起きたか」
「ローザは?」
「ちょっと出てるけど、すぐ戻るってよ。気分はどうだ?」
「うん、平気。頭が少し痛いけど」

リディアは後頭部を枕に落とし、僅かに開いた目で天井を見つめる。そして「ダメだな私」と独り言のように呟いた。

体調のせいかもしれないが、泣きそうなその声に胸が痛んだ。

「だから、大袈裟だっての」
「私は、みんなのことが好きなのに」
「セシルもカインもローザも、好きなんだもんな」
「それにエッジも」

付け加えられた自分の名に、反射的に心臓が跳ねた。横並びの好意に虚しさを感じる冷静さすら飛んでしまっていた。

「迷惑かけちゃったね」
「何しおらしいこと言ってんだ。襲っちまうぞ」
「……やっぱりエッジは嫌い」

リディアは軽くエッジを睨んだ。相変わらずの反応に苦笑いを噛み殺しつつ、エッジは両手で皿をつくりリディアの口元に差し出す。

「こんくらいのことで迷惑だなんて思うかよ。お前が何を吐き出そうと素手で受け止めてやるぜ。ほれ」
「やだ、もう……」

リディアは眉をしかめ、しかし嬉しそうに目を細めた。

そういえば、もうとっくに五分は過ぎているはずだ。エッジは床に座り直し、少しだけ背筋を伸ばした。そしてゆっくりと息を吸う。

「だからさ、我慢したりとか無理したりとか、すんなよ。俺は平気だから。たぶん」

慰めではなく本心でそう思っていた。リディアが自分を頼りにしてくれるかは分からないが、こちらはいつ何が来ても大丈夫だという決意表明のつもりでもあった。

リディアからの返事はない。言ってはみたものの照れくさく、エッジは再びリディアの手に目をやり、ローザの帰りを待った。そこで自分がここにいる理由を思い出す。白い手は相変わらずマントを掴んだままだ。

なあ、と声をかけてリディアの顔を見た。彼女は目を閉じ、いつの間にかすうすうと寝息をたてていた。

「なんだよ、寝ちまったのか」

少し残念な気もしたが、うっすらと微笑んでいるような寝顔に安堵する。

「……おやすみ」

声に出して言うと、魔法が解けたように彼女の手からするりとマントが落ちた。一瞬、自分が秘密の合い言葉でも口にしたのかと思った。

毎日繰り返される、なんてことのない挨拶だ。しかしその言葉が彼女を救うような気がした。そう思うことで、自分が救われたかったのかもしれない。それでも、彼女に安らかな眠りを与えることができればそれでよかった。だから。

「おやすみ」

繰り返し口にした。一瞬でも彼女の不安が消え去ることを願った。

おやすみ。それはきっと、明日へ繋がる合い言葉なのだ。少なくとも、彼女にとっては。


おやすみ。


おやすみリディア。

また明日。

2008.4.14
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