天井が低い。

宿屋の一室で気怠そうに顔を上げながら、エッジはそんなことを考えていた。もう見慣れたはずのこの部屋をそんな風に思うのは初めてだ。夕食を終えたばかりのためか、少し頭がぼうっとしている。

「飛空艇、明日の昼過ぎには仕上がるってよ」

部屋に戻ってからずっと同じ姿勢でベッドに座るセシルに言う。セシルはうつむいたまま「ああ」と小さく答え、一呼吸置いて「ご苦労様」と顔を上げた。鎧を脱いだセシルは、軽装なのに顔つきが重い。

なんとなく腰を落ち着ける気分にはなれずうろうろと部屋を歩き回っていたエッジだったが、特にやることもなくなり仕方なく自分のベッドに腰を下ろした。その勢いのまま横になってしまおうかと思ったが、起き上がる時の怠さを思い傾きかけた上半身を元の位置に戻す。休息に向かっていた体が、抗議するように重さを増した。

代わりに短く息を吐くも思いのほか責めるような溜息になってしまい、エッジはちらとセシルの顔を伺う。彼はこちらには一瞥もくれず静かに床を眺めていた。

「あのジジイ、相当人使い荒いぜ。一国の王子をアゴで使いやがる」
「シドはそういうの、あまり気にしないからね」
「お前らだってたいして変わんねーよ。ったく、バロンの連中はどいつもこいつも……」
「いや、シドは気に入らない人間に飛空艇は触らせない。君のことを認めてるんだよ」

そう言ってセシルは力の無い笑みを浮かべた。エッジがふんと鼻を鳴らし下唇を突き出すと、部屋に今日何度目かの沈黙が訪れる。

エッジは再びそっと息を吐き出しながら、この部屋はこんなに狭かったか、とも思う。

部屋にはセシルと二人きりだ。けれど、身動き一つとるのも窮屈だった。それに加えて本当に話したいことを避けての白々しい世間話が、未だ満たされない体に、ぬかるんだ道をゆっくり進むような疲労感を与える。

壁の色褪せたシミが目に入った。床には家具を引きずったような傷。普段は気にも止めないようなものがやけに目に付き、その全てが気に障った。

「なぁ」

エッジの呼び掛けに、セシルがゆっくりと顔を向ける。

「どうすんだ? アイツのこと」

予想していたであろう言葉にも関わらず、セシルは顔を強張らせ眉を寄せた。辛そうな彼の表情は心苦しくもあったが、エッジは心の隅で僅かに安堵していた。能面よりは数倍ましだ。

しかしそれも長くは続かず、セシルはゆるゆると穏やかな表情を取り戻す。今日一日ずっと自問していたであろう問いに、「またその話か」と自嘲の笑みを浮かべているようにも見えた。

「二回目なんだろ? アイツが裏切るのは。またいつ対面するかもわからねぇし、あんまゆっくりもしてらんねーぜ」

内容の重さとは比例しない軽い口調でエッジが言った。セシルは何も言わず、ただじっと流れ出る言葉に耳を傾けている。どこまで届いているか分からなかったが、エッジは構わず続けた。

「今ここでとは言わねーけど、早めに腹くくった方がいい。そうじゃないと――」

そこですうと息を吸い、セシルの目を見据えた。

「今度こそ殺されるぜ」

セシルの瞳は動かない。藍色の瞳は僅かに濁り、暖かさも冷たさも感じさせなかった。無意識だろうが、セシルは胸の、ちょうどカインに殴られたあたりを手で押さえている。

「お前らにもあの竜騎士にも事情があるだろうけどな、俺は国を守らなけりゃならない。言ってる意味わかるよな?」

セシルは目を伏せ小さく頷いた。否定とも肯定とも取れる頷きだった。


それからしばらく、二人は黙っていた。お互いの吐息が聞こえる程の沈黙の中を、先ほど放ったエッジの言葉がいつまでも彷徨っている。

先に口を開いたのはセシルだった。

「意識は、あるそうだよ。今はどうかわからないけど」
「……なら尚更だ」
「そうするのが正義、なのか」
「たぶんな」

エッジは短い返事で話を促す。

「正義はもっと、人に優しいものだと思っていたよ」
「……へぇ。お前でもそんなこと言うんだな」
「らしくないかい?」
「いや、いいんじゃねーか」

肩をすくめてみせると、セシルは僅かに頬を緩ませた。

エッジはやや困惑していた。出来損ないの笑顔で本心を隠し一人苦しむセシルと、腹を割って議論でも交わそうかと思っていたのだ。だが今の彼は、どこか吹っ切れているようにも見える。

セシルの浮かべる笑みが、彼の強さなのか弱さなのか、分からない。その両方なのかもしれない。

エッジはおもむろに立ち上がった。見上げるセシルに「ローザだ」と一言告げると、入口のドアへ向かう。

耳をすませ扉の向こうで足音が止まるのを確認してから、ドアを引いた。開かれた視界の先で、驚き顔のローザが立ち尽くしている。

「私、まだノックしてないわ」
「忍者は『あざとい』んだよ。セシルなら奥にいるぞ」

当然のように出されたセシルの名に、ローザは頬を染め少女のような恥じらいをみせた。エッジはドアを大きく開き、彼女を愛しい恋人の元へと導く。小振りのポットとカップを乗せたトレーを両手で大事そうに掴みながら、ローザは部屋の奥へと歩みを進めた。

部屋に入ったローザを、セシルが柔らかい笑顔で迎える。途端にローザの顔が歪んだ。それでも気丈に涙を堪え、彼女はセシルの笑みに応えようと必死で笑顔をつくっている様子だった。

二人の視線が絡まる。心を通わせた者同士だけが交わすことのできる、音のない会話が続いた。

「あー……。それ、置いたらどうだ? ローザちゃん」

エッジはポリポリと後頭部を掻きながら、ローザの持つトレーを指した。ええそうね、と名残惜しそうに視線を外し、ローザはトレーをテーブルの上に置く。カチャと食器のぶつかり合う音が、なんだか小気味良い。

エッジはトレーに目をやった。華奢なカップとソーサーが四組、ポットを囲むように並んでいる。

「リディアなら後で来るわよ。そこでルカに会ったの」

エッジの視線に気づき、ローザが言った。女は時々、恐ろしいほどに目ざとい。

エッジは「あっそ」とそっけなく言い捨てた。

「ホットミルク、作ってきたの」
「ホットミルク!? この暑いのにか?」
「お城の中はそれほど暑くないでしょ。それに、温かい飲み物は気持ちを落ち着けるのよ」

話をしながら、ローザはテキパキとミルクを注いでいく。懐かしく甘い匂いが鼻をくすぐった。セシルもしばらくは同じように懐かしさに浸っていたようだったが、何か思うところがあったのか、再び表情を曇らせ目を伏せた。

少しでも幸せを感じると、そうでない人のことを思ったりするものだ。今のセシルは、特にその傾向が強いのかもしれない。

そんなセシルの様子に、ローザは気づかない振りをしているようだった。黙々と作業を続け、笑顔をつくり注いだばかりのミルクをエッジに差し出す。穏やかに揺れるミルクの表面を見ながら、エッジは一瞬、思案の表情を浮かべた。

「もしかして、苦手だった? ホットミルク」
「いや、ちょうど良かったよ」

エッジはカップを受け取り、一度口先を付け温度を確かめると、一気にそのすべてを喉へと流し込んだ。

「これから飲みにでも行こうと思ってたんだ」

え、とローザがセシルを見た。

「いや、俺一人で」
「一人で?」
「なに、一緒に来てくれんの? 朝まで付き合ってもらうけど」
「それは……遠慮させてもらうわ。せっかくだけど」
「そ。じゃあやっぱ一人で行ってくるわ」

エッジは「ごちそうさん」とカップをトレーに戻し、セシルの顔を見た。彼の顔にはやや困惑の色が伺えるが、特に異論はないようだ。不安げにみつめるローザの肩を軽くポンと叩いて、エッジは彼らに背を向けた。

「エッジ」

背後から掛けられた声に、エッジは振り返る。そこには静かな空気を纏ったセシルが、真っ直ぐな視線をこちらに向け、佇んでいた。

「こんなことを言ったら甘いと思われるかもしれないけど、僕はカインのことを諦める気にはなれないんだ」

エッジは反射的に「ああ、甘いな」と言おうとしたとしたが、セシルの目に力が宿っているのを感じ、無言のままきちんと彼の方へ向き直した。

「ただ、君のこともかけがえのない仲間だと思ってる。君だけに辛い決心をさせるつもりはないよ」

そう言ってセシルは、寂しさを包み隠すように微笑んだ。

エッジは打たれたような顔をして、まじまじとセシルを見た。見ながら、セシルという男を改めて知ったような気がした。

「お前なぁ、よくそんな恥ずかしいことを真顔で言えるよな」

それに矛盾している。彼はカインを諦めないし、いざとなったらカインを斬るという自分のことを止める気もないらしい。それどころか、その自分を一人にはしないと言うのだ。

結局のところどうしたいのかは分からないが、その矛盾した言葉に、彼の本心が見えた気がした。エッジの肩から少しずつ力が抜けていく。

「厄介事を先送りにすんのは嫌いだ。だが、ごちゃごちゃと考えるのも性に合わねぇ。とにかく俺は飲みに行く」

乱暴に吐き捨て、問題あるか、と二人の顔を交互に見やる。ローザは困ったように、セシルは笑みを湛えたまま、小さく頷いた。

「よし、じゃあ行ってくる」

仕事に出掛ける父親よろしく満足げに片手を挙げると、エッジは再びドアへと向かう。そうしてドアノブに手を掛けたところで、思い出したように振り返った。

「今日は久々にゆっくり飲めそうだから、ちっと遅くなるぞ。つっても夜明け前には戻るけどな」
「エッジ」

ローザが一歩前に出て声を掛けた。

「地底に夜明けはないわ」

妙なところに突っかかるもんだ、と思いつつ、エッジは顎に手を当てしばし考える。

「んー、じゃあ、三時間。あと三時間は戻らないから、男部屋好きに使っていいぜ」

そう言って含みを持たせてニヤリと笑ってみせると、ローザの頬がみるみるうちに桜色に染まった。普段気丈に振る舞う美女のこんな顔を見るのは、愉快だ。

「もう! あなたって本当に……」
「リディアにはうまいこと言えよ」

エッジは歯を見せて笑い、きょとんとした顔で立ち尽くすセシルに軽く目くばせすると、部屋を後にした。

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