木々の立ち並ぶ街外れは夕刻前だというのに人通りもなく、鳥のさえずりや草木のざわめきが耳を通り抜けるだけだ。リディアが気持ちよさそうに顔を上げ奏でられるその音を楽しんでいるようなので、俺は歩みを緩めて斜め後方からその彼女の横顔を楽しんだ。

リディアの香りを含んだ風が俺の横を通り、余韻を残して舞い上がる。怖いくらいに平和、なんて言葉を耳にしたことがあるが、今俺たちが過ごしているこの時間は恐ろしさなど微塵も感じないくらい、ただただ穏やかだった。彼女と同じ時間を共有しているというだけで、こんなにも満たされるとは。俺は、この時間がずっと続けばと──。

「ずっとこんな時間が続くといいね」

ふいにリディアが言った。心臓が早鐘を打つ。落ち着け。深い意味は無い。

「エッジも珍しく静かだし」

落ち着く間もなく、振り返り見せる悪戯っぽい微笑みにとどめを刺された。小首を傾げながらさらに顔を覗き込んでくるその仕草に、憎らしさすら感じる。大人の男をからかいやがって。しかしやはり勝てず、俺から先に視線を逸らした。

「ちょっと疲れたんだよ。活字だらけの場所にいたから」
「沢山あったもんね。魔道書以外にもいろいろ」
「それにしても買いすぎだろ」

動揺を悟られまいと、石のように重い魔道書を掲げてみせると、ふと彼女の微笑に悲しげな色がさした。木漏れ日の中で、その瞳がきらきらと輝く。

「私には、魔法しかないから」

リディアが小さくつぶやいた。あまりに寂しく、そして的外れな言葉だ。

「何言ってんだ、贅沢者が」
「えっ?」
「みんながどんだけお前のことを大事にしてるか、分かってんの?」

でなきゃ俺はこんなに苦労しない、と出かけた言葉を飲み込み、続ける。

「お前がお前だから、みんな助かってんだよ。他の奴らの前でそんなこと言うなよ」

少し早口に話終えると、リディアが大きく目を見開いたまま一瞬立ち止まった。

「もしかして、慰めてくれてるの?」
「そんなつもりはねーけど」
「ありがとう」

早鐘が加速する。彼女がどんな顔でその言葉を言ったのか知りたかったが、もはや直視することはできなかった。

心臓から緑色の成分が送り出されてるんじゃないかと思うくらい、体中がリディアで溢れていく。ふいに懐に忍ばせてある例の本に手が触れた。ここだけ緑色の循環が悪いような気がする。あれだけ焦って手に入れたこの本が急に酷く無粋なものに思えて、俺は彼女の目を盗んで紙袋に包まれたままのその本を、古木の‘うろ’に放った。よほど勘のいいものでなければ、ここに何か物が入っているとは気づかないだろう。今夜の宿は大部屋一つだから、保管場所にもちょうどいい。

なんだか少し軽くなった体を、両腕を上げてぐいと伸ばした。

「エッジは買わなかったの? エッジの好きそうな本もあったよ」

どきりとして再び体が縮こまる。

「そ、そうか? 気のせいじゃないか?」
「なによそれ」

自分でも分かるくらい目が泳いでいる。ローザがいたら一発でアウトだったろう。やはり俺の判断は正しかったのだ。忍者としては明らかに落第点だが。

「まあでも、興味深い本はあったな。いろんな技が載ってた」
「へえ。どんな?」
「エブラーナの将来を左右すると言っても過言じゃない」
「そんなに凄いなら私も習得したいなぁ」
「ホントかっ!?」

思わずがっしとリディアの肩を掴んだ。彼女はたじろぎながらもかくかくと首を縦に振る。

「なら、俺がお前に教えてやるよ、いつか」
「うん……楽しみにしてる」

リディアは怯えた様子で首を傾げていたが、その返事が聞けただけで俺は満足だった。


◇ ◇ ◇


宿屋に戻ると、俺はすぐに外へ出た。宿の裏手にある広場に腰を下ろし、小ぶりの木片を小刀でがりがりと削る。夕刻近くになってパロムがやって来たので、俺は傍らに置いた約束の物をひとつ、彼に向かって放り投げた。

少年は受け取った木製の手裏剣をまじまじと見つめる。自分の手には小さすぎたそれも、パロムの小さな手の中ではしっかりとした存在感を示していた。

「なんだ、ニセモノじゃないか」
「初心者はそれで充分。これでも結構本格的なんだぜ」

そう言って投げてみせた木製手裏剣は、まっすぐ飛んで木の葉を射抜いた。

書物店で口にしたパロムの望みは、「手裏剣を投げてみたい」という意外にも子供らしいものだった。さすがに五歳児に本物の刃物を渡す訳にもいかないので、薪木を少し譲ってもらい即席で作ったのだ。

こんなのもあるぞ、と仕上げたばかりの木製クナイを差し出すと、パロムはおおっと声を上げて目を輝かせた。このこましゃくれがこんなもので納得するかいささか不安でもあったのだが、要らぬ心配だったようだ。

「いいか、こう縦に持ってだな……」

手裏剣の投げ方を教えてやればうんうんと素直に頷き、上手くできたことを褒めてやれば意気揚々と投げ続ける。なんだかんだ言ってまだ子供だ。


パロムは飽きる様子も無く、投げては拾い拾っては投げるという動作を繰り返していた。夕焼けの中を夢中で遊ぶ少年というのは、なんともいえない郷愁を誘う。周囲に期待され、様々なことを詰め込まれる日々の中で、普通の遊びを求める彼の気持ちが俺には何となく分かった。大人になってもきらきらと輝く宝石のような思い出は、こんな何気ない時間のなかにあったりするのだ。

地面に胡坐をかき、自身の思い出を振り返るようにその風景を眺めた。次第に色を変えていく景色、そして少年の背後に忍び寄る長い影。俺の場合はじいだったが、彼の元に訪れたのは小さな女の子だった。ぽかり、という擬音がお似合いのげんこつが、パロムの頭に見舞われる。

「痛ってえ! 何すんだよ!」
「またこんな所で油を売って!」

パロムと同じ顔をした少女は、大人びた仕草で弟をたしなめた。そして、口を尖らせ頭を押さえるパロムに向かって、あーだこーだと説教を始める。

一連の流れは毎度のことのようで、二人のやり取りはどこかこなれた印象すらあった。だがさすがに傍観しているのもためらわれ、俺は隙間を見つけて二人の間に入り込んだ。

「まあまあ、ポロムちゃん。たまにはいいじゃねーか」
「たまにじゃありませんの、パロムの場合」

ポロムは腰に手を当て溜め息をついた。 「そう堅いこと言わないでさ、ポロムちゃんもたまには外で思いっきり遊んでみたらどうだ?」
「そーだそーだ、大人ぶりやがって。手裏剣の一つでも投げてみろ」
「なんなら、くのいちセットでも作ってやるぞ」

便乗して言葉を返したパロムの耳をつねりながら、ポロムは「えっ」と言って目を丸くした。

「クノイチって、忍者のことですの?」
「そうだよ。女の忍者のことをくのいちっていうんだ」
「そうでしたか……。でしたら直接こちらにお持ちすれば良かったかしら」
「何の話?」
「部屋に戻られたら分かりますわ」

少し気になる物言いだったが、たいした用でもなさそうだったのでそれ以上は言及せず、パロムの耳を掴んだままお辞儀するポロムに手を振り、二人を見送った。


◇ ◇ ◇


部屋ではそれぞれがそれぞれの時間を過ごしていた。リディアはベッドで買ったばかりの魔道書を広げ、ローザは隅の机で何やら書き物をしている。セシルとカインはテーブルで紅茶を飲み、時折ぼそぼそと言葉を交わしていた。

「お帰りなさい。いつの間にか随分仲良くなったのね」

俺の帰宅に気づいたローザが顔を上げて微笑んだ。窓から先ほどまでいた裏庭が良く見える。俺とパロムの様子をここから伺っていたようだ。

「精神年齢が近いんだろう」

ローザの言葉を聞いたカインが、こちらには一瞥もくれず口を開いた。

「おーおー。お前のそのイヤミも今日は可愛く聞こえるぜ」
「よせ。気持ち悪い」

俺は気分がよかった。今日一日で色々なものが得られたという、自信にも似た充実感に溢れていた。夕食の前に武器の手入れを済ませて爽やかな気分のまま眠りにつこうと、俺は床に座り道具を広げる。ベッドに腰掛けるリディアも機嫌が良さそうだ。

鼻歌混じりで刀を手に取ると、紅茶にどぼどぼとミルクを注いでいたセシルが「そういえば」とつぶやいた。

「さっきポロムが何か持ってきてくれたようだけど」
「そうだ、忘れてた。落とし物を届けに来てくれたの」

そう言ってリディアは魔道書を入れていた手提げの袋をガサガサと漁った。

「なんか、変な場所にあったんだって」
「ポロムは鼻が利くからね」
「だけど私、覚えがないの。書物店のおじさんは、私たちが買ったものに間違いないって言ってたみたいだけど」

あの体裁。放つオーラ。まさか。

「リディ……」
「えっと、“妖艶くのいち、夜のお忍びヨンジュウハチテ”」

俺が制止するのと彼女が本の表題を読み上げるのが、ほぼ同時だった。カインが軽く紅茶を噴き出し、ローザの書き物をする音がピタリと止まる。怖いくらいに静かな時間が流れた。そう、まさに怖いくらいに。

不穏な空気を察したリディアが不安げにセシルを見ると、セシルは持っていたカップをソーサーに置き、穏やかな微笑み浮かべた。

「リディア、それはシジュウハッテと読んでね、その場合の意味は――」
「セシル、教えんでいい。……くのいちというのは忍者のことだったな、王子」

カインが横目で俺を睨んだ。表題からして、持ち主は明らかだ。彼の溜め息が、膝立ちのまま動くことの出来なくなった俺を攻める。

「あ、もしかして昼間エッジが言ってた本ってこれ? やっぱり買ってたんだ」

言ってリディアは嬉しそうに本を開こうとした。俺は疾風のごとく立ち上がり本に向かって手を伸ばす。彼女の元にたどり着くまでの時間は、永遠のように長かった。

本に触れる。リディアが叫ぶ。彼女の手から放たれた本が、ページを開いたまま床に落ちた。開かれたのは、この本の目玉ともいえる一ページだ。突如広がる、めくるめく淫靡な世界。

「おや、挿絵入りとは本格的だね」
「セシル」

どこまでも呑気なセシルをカインが制する。リディアもようやく全てを理解したようで、顔を赤くしながら小刻みに震えていた。どうしてくれよう、この空気。

「……一緒に見る?」
「バカ! 変態!」

リディアの投げつけた本が俺の顔に当たり、先ほどよりもさらに強烈なページを開いて足元に落ちた。彼女は一層大きな叫び声を上げてセシルにしがみつく。

俺は自分のことは棚に上げて、彼女のその行為に憤った。

「変態とは何だ! 素敵な生命の営みだろーが!」

床に落ちた本を拾い上げそう叫ぶと、横合いから白い手が伸び本をさらった。振り返ればそこにローザの凍てつく微笑みが。

「エドワードさん、ちょっと」
「……はい」

部屋を出る直前、慰めるようにリディアの髪を撫でるセシルの姿を見た。二つの運命が遠ざかるのを感じながら、俺は部屋をあとにする。

脳裏に浮かぶのは、なぜか夕焼けに染まる少年の姿だった。

2008.06.18
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