+青い春+

想像してみて欲しい。四方を巨大な本棚に囲まれた細長い部屋。さほど広くないその部屋はそれだけで息詰まるような圧迫感があるというのに、さらに二列の本棚が中央を仕切り、人とすれ違うのもやっとといったお粗末な通路を作っている。分厚い魔道書の数々が事も無げに棚を埋め尽くし、そこに入りきらなかった本などは床に直接積み重ねられていた。

つまりは、上を見ても下を見ても本の波。この息苦しい箱から逃れようと目をつむり腹ばいになって進んでも、本に頭をぶつけ行く手を阻まれるといった末期的状況だ。閉じられた本の中から、読み方も分からない単語たちの「早く出せ」と叫ぶ声が聞こえてくる。ような気がする。


俺も忍術を操る者。魔法も忍術も元を正せば同じものであり、この手の書物は嫌というほど読破してきた。だが俺はどちらかといえば、自然の原理やら成り立ちやら仕組みやらについての記述を百ページ読むより、手裏剣を百回投げる方が充実感を得られる質である。ましてやここの魔道書はかなり高度で専門的だ。近くにあるだけで頭痛がする。

ならばどうして俺が魔道書だらけのこの場所に身を投じているのかといえば、理由は単純にして明快。彼女が来たいと言ったからだ。


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


彼女は大きな瞳をしっかりと見開き、左から右、右から左と棚を辿りながらその表題の一つひとつを確認している。上から下へとその動作を繰り返し、一つの棚が終われば隣の棚へ移って、今度は下から上へ。そうやってじわりじわりと横に進む。時折隣の美女と言葉を交わすも、その行為が途切れることはない。

俺は少し離れた場所から彼女の様子をちらちらとうかがっていた。ちょうど薄暗い店内に目が慣れてきた頃だった。

彼女はあの調子でこの部屋を一周するつもりだろうか。それほど広くない部屋とはいえ、ここにある本の量は半端ではない。日が暮れるわ、と心の中で悪態をつきつつ、適当に取った本のページをパラパラとめくる。目に飛び込んできた文字は頭には回らず、そのまま鼻から抜けて出た。意識はなおも彼女に向いたままだ。

「こういう時のリディアには本当に驚かされちゃうわ」

彼女の隣で黄金色の髪を揺らしローザがつぶやいた。俺は離れた場所から人知れずうんうんとうなずく。当のリディアが視線を棚に向けたまま「えー?」と気の抜けた返事をするので、ローザは少し呆れたように微笑んだ。

俺たちの中で、いや、魔法国家であるこの国の中でも、これだけの魔道書と対等に渡り合えるのはリディアだけなのではないかと思う。こうして街中で彼女を見ているとつい忘れてしまいそうになるが、彼女は純血の召喚士にして偉大な黒魔道士なのだ。

リディアの視線が棚の上段へと上がり、自然と口が半開きになっていく。どこか幼さの残る横顔に無防備な表情。真っ直ぐな眼差しや白く伸びた喉との対比がアンバランスな魅力となって、俺の脳をゆらりと揺らした。

「エッジ、何かいい本みつけた?」

不意にリディアの視線がこちらに向き、思わず身を硬くする。いつの間にか彼女を凝視していたようだ。

「あ、いや……。さすがミシディアだな。たくさんあって選べやしねーよ」

そうだね、と微笑んでリディアは視線を棚へ戻した。彼女の目は真剣そのものだ。「見に来たのは本じゃない」などとはとても言えない。

とはいえ、せっかく訪れた書物店。自国では見られないような珍しい書物に触れたこととリディアの真摯な眼差しが背中を押し、少しずつ勉強の虫が疼いてきた。もしかしたら、とんでもない書物との出会いがあるかもしれない。エブラーナの将来を左右するような、衝撃的な出会いが。

手に持っていた本を棚に戻し、姿勢を正して背表紙の文字を順に眺める。今の俺の姿を見たら、じいは涙を流して喜ぶことだろう。満足げに顎を擦っていると、子供特有の甘ったるさを含んだ声が入口付近から響いてきた。

「あ、ローザねえちゃん! リディアねえちゃんも!」
「あら、パロムじゃない。あなたも本を買いに?」
「うん、ちょっとな。お使いだ」

パロムはにかっと笑って言い、小さい足をこちらに向けた。そして俺と目が合うと、途端につまらなそう顔をして頭の後ろで手を組んだ。

「なんだ、ニンジャのあんちゃんもいたのか」
「相変わらず可愛げのねーガキだな」

俺の言葉を気に留める様子もなく、パロムはキョロキョロと目当てのものを探し始める。

ミシディアではこんな子供でもこのような難しい書物を読むのだろうか。とても理解できるとは思えないが。そんなことを考えながら揺れるおさげを見下ろしていると、そのおさげがくるりと方向を変えた。

「あんちゃん、今、おいらみたいな子供にこんな本読めるわけないって思っただろ」
「お。よく分かったな」
「おいらをナメてもらっちゃ困るぜ。なんせミシディア始まって以来の天才児だからな」
「自分のことを天才なんて言う奴はたかがしれてるぜ」
「あんたには言われたくないな」
「あ? 俺は腕の立つエリート忍者兼二枚目王子って言ってるだけだ。事実だしな」
「自分を二枚目なんて言う奴はたかがしれてるぜ」
「なんだとコラ。今すぐ鏡持って来い!」
「もう、エッジ!」

リディアがいさめるように言った。眉をつり上げ、突き立てた人差し指を口元に当てる。

「本屋さんでは静かに! そうやってすぐムキになるんだから」
「なんで俺だけ……。そもそもムキになんかなってねーし」
「エッジの方がずっとお兄さんでしょ! とにかく、仲良くしてね二人共」

パロムが「はーい」と返事するのを聞いて、リディアはローザと共に裏側の棚へと向かった。消えゆく緑の髪を名残惜しく見送る俺の横で、パロムはニヤニヤと憎たらしい笑みを浮かべる。

「怒られてやんの」
「お前のせいだろーが」

はぁ、とため息をひとつこぼす。

「なぁ、あんちゃん」
「なんだクソガキ。エッジ様と呼べ」
「リディアねえちゃんと二人きりにしてやろうか?」
「なっ……!」

思わず絶句した。ミシディアの子供は、魔道書だけでなく人の心まで読めるのか。

「子供って案外鋭いんだぜ。どうせうまくいってないんだろ?」

俺は腰をかがめパロムの肩を掴んだ。

「滅多なことを言っちゃあなんねーぜ!」思わず口調がおかしくなる。「なんで俺が」
「なんだ、図星か」

パロムは片方の眉をくいと引き上げ、俺をじっと見上げる。大きい瞳に長いまつ毛、さらさらと細く柔らかい髪がなんとも愛らしい。こんな生意気な発言をしなければ、無条件で守ってやりたくなるような存在だ。俺は本当に残念な気持ちになった。

「ばーか、今は旅の途中だから自制してるだけだ。俺が本気出しゃあ女の一人や二人……」
「リディアねえちゃん鈍そうだもんな」
「そうなんだよアイツ。あの手この手をさらりと流して、そのうえ人のことをバカだの変態だの……って、そうじゃねえ!」
「大変だな、あんちゃんも」
「ガキのくせに同情なんかしてんじゃねーぞ。大人はいろいろフクザツなんだ」
「オトナねぇ」

パロムの前髪をピンと弾き、俺はかがめた腰を元に戻した。

「いずれにせよ、五歳児の世話になるほど俺は落ちぶれちゃいねーよ」
「まあいいけど、あんま無理するもんじゃないぜ」

勝ち誇ったように俺を見るこのちんまりとした生き物は、自分の足で歩き始めてまだ数年しか経っていないのだ。恐ろしい世の中になったものだ。

「こまっちゃくれやがって」

精一杯の反撃を聞き流しパロムが再び本を眺め始めたので、俺も本棚に目を移して再び運命の出会いを求めた。しかしどれもいまいちピンと来ない。先ほどの会話が尾を引いてどこか集中できていないということもあるが、思えば運命の出会いなんてものは、何の意識もしていない時にポンと飛び込んでくるものなのかもしれない。例えば、あの時のように。

「あ、あったあれだ。あんちゃんあそこの本取ってくれよ。右から三番目」

パロムがふっくらと丸い拳から小さい指をつんと伸ばし、棚の最上段を指差した。そこにあったのは「自然界の元素と二大理論」などと書かれた分厚い本だ。思わずため息がこぼれる。俺は後頭部を掻きながらその本に手を伸ばした。

ふと視線のようなものを感じる。目の前の本棚からだ。手を空に浮かせたまま、俺は「それ」を見た。あの体裁。放つオーラ。まさか。

「どうした、あんちゃん。大丈夫か?」

固まる俺にパロムが言った。俺は声が震えないよう二度ほど咳払いをしてから、慌てて彼の指した本を棚から抜いた。

「ああ、ほらよ」

本を差し出しながら、改めてそれに視線を送った。やはり間違いない。あった。運命の出会いが。手のひらにじわりと汗が滲む。この出会いを逃してはならない。

頭の中でぐるぐると思考を巡らせた。このあと取るべき行動は。

「サンキュー。じゃあな、あんちゃん」
「ちょっと待てい!」
「わっ! 何だよ急に」

俺はパロムに近づき声をひそめる。

「さっきのはアレか? お前がローザをどこかに連れ出すと、そういうことか?」
「まぁそうだけど……」
「よし、その手でいこう」
「さっき五歳児の世話にはならないって言ったじゃないか」
「事情が変わった」
「オトナって都合いいよな」

パロムは呆れたように肩をすくめた。

「で、お前の望みは何だ」
「あ、バレてた?」
「ただで手を貸そうなんてタマじゃないだろ」
「うん、まあ、大したことじゃないんだけどさ……」

そこでパロムは少し恥ずかしそうに唇をすぼめ、ぼそぼそとその望みを口にした。

「なんだ、そんなことか」

俺は二つ返事で快諾し、彼と交渉成立の握手を交わした。


本の精算を済ませたパロムは、「ポロムが魔法を教わりたがっている」というようなことを口実にローザを連れ出した。ローザはある分野において、忍者の俺が感心するくらいに鼻が利く。こうして第三者を使ってさり気なく遠ざけておくのが賢明だ。

二人がいなくなってからもなお、リディアは宝探しでもするように丹念に背表紙の列を眺めていた。俺はリディアが夢中になっているのを確認し、熱い視線を送って来た運命の相手――古ぼけたその本を手に取ると、つらつらと本棚をなぞる彼女に気づかれないようそっと精算台へ向かった。

こうして俺は、エブラーナ中を探しても終ぞ見つけることの出来なかった出会いを、なんともあっけなく手に入れたのである。


◇ ◇ ◇


店の外へ出ると、わずかに傾いた黄色い陽射しが優しく目の奥を突いた。強すぎる主張も無く、しかしその元にあるものを生き生きと輝かせるこの時期の太陽は、全ての始まりを祝福しているかのように見える。そんな風に思うのは、ようやく巡り合えたこの本と、隣で目を細める意中の人の存在が為だろうか。

「ちょっと歩かねえ?」

気分の良さに乗じて彼女を誘った。祝福の光が後押ししてくれるのも感じていた。リディアは伸びをするように体を反らし、あごを突き出して目を閉じた。

「そうだね。お天気もいいし、明るいうちに」

よし、と言って俺はリディアの手にぶら下がる袋をさらった。魔道書の詰め込まれたそれは、ずしりと沈み指に食い込む。突然取り上げたからか、リディアは驚いたように「あっ」と小さく声を発した。

「いいよ、自分の物くらい自分で持つから」
「俺が女に重い荷物持たせてるみたいに見られるだろ」
「そういうものなの?」
「そういうものなの。ちっとはそういう勉強もしろよ」

リディアはむうと口を尖らせこちらを見た。荷物を持ってもらった手前文句を言うわけにもいかず、また礼を言うタイミングを逃したことに困惑し、結果上目で拗ねたように俺を見つめるという行為に及んだようだ。こんな風に全てを顔に出してしまうところが面白くてつい憎まれ口を叩いてしまうが、時に相手は一枚も二枚も上手である。今回は俺の負けだった。いや、いつだって俺は彼女に勝てたためしがない。

彼女から視線を逸らし斜めに空を睨みながら、俺は足早に歩き出した。涼やかな風が火照った頬をさらりとなでる。暖かい陽射しは硬くなった全身の筋肉をほぐしていく。うしろからついて来る足音は、いつしか軽やかに弾むようなリズムへと変わっていた。

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