初めて見たのは、泣き顔だった。


エッジは全身を走る痛みに呻き声を上げていた。吹き荒れる炎に激しく体を叩き付けられ起き上がることすらできない彼を、見知らぬ四人の男女が囲んでいる。

その中に彼女はいた。

新緑の樹々のように瑞々しい緑色の髪が印象的だった。だがそれ以上に、彼女のつぶらな瞳から流れる涙が心を捕らえた。親の敵を討とうとして返り討ちに合い、ボロボロの体で減らず口を叩く自分が、この少女には「死なせてくれ」と喚く愚か者に見えたのかもしれない。

正直言って不快だった。見ず知らずの者たちに無様な姿を晒すことも、憐れみの目を向けられることも。それでも、音も無く流れ落ちる朝露のような涙を、エッジは純粋に綺麗だと思った。

女の涙も悪くないと思ったのは、これが初めてだと思う。


◇ ◇ ◇


すぐ側の岩壁に手をやると、ひやりとした感触が指先を伝った。体の熱が吸い取られていくようで、エッジはすぐにその手を離した。この岩はこんなに冷たかったのだと改めて思い、岩肌を眺める。今もまだあの炎の中にいるような気がした。

カチャ、と鎧の擦れる音が止まり、前を歩いていたセシルが振り向いた。それにつられ隣のローザも振り返る。

「まだ、どこか痛むかい?」

ふいに立ち止まった自分を労わるセシルに、エッジは首を横に振って答えた。自分よりだいぶ年下の男にこんな風に気遣われ、それでも嫌な気がしないのは、彼のこれまで辿ってきた道が人よりも険しいものだったからではないか、とエッジは思う。

「もうなんともねーよ。ゆっくり休ませてもらったしな」

エッジは両手を開き胸を張ってみせた。そして、セシルの横で心配そうな視線を向けてくるローザの顔を覗きこみ、続ける。

「美人に回復魔法かけてもらったから、前よりずっと元気になったんじゃねーかな」

ニヤリと笑いかけるとローザは呆れたように首を傾げ、心配なさそうね、と微笑んだ。


セシルたちは再び歩き始め、エッジも後に続く。

しばらくして、少し離れた所で様子を伺うようにこちらを見ていたリディアが、ゆっくりと近付いてきた。自然と二人並んで歩くかたちになる。エッジは横目で彼女を見た。どうしても彼女の瞳が気になり、それでいて見つめられるのは苦手で、つい盗み見るようにしてしまう。

リディアの瞳は静かだった。最初に見た彼女の目が涙に潤み輝いていたからだろう、エッジはなんだか少し物足りなさを感じてしまい、そんな自分に僅かな嫌悪を感じた。

リディアは何も言わず、ときおりエッジの顔をちらと見てはつま先に視線を落とし、小さく息を吐いて再び前方を見つめる。エッジは堪らず彼女に声を掛けた。

「どうした。俺と手でも繋いで歩きたいのか?」

リディアはえっと驚き、丸くなった目を向けてきた。エッジは、ほれ、と片手を差し出す。

「……いやよぅ」

その手を見ながら、リディアは眉をしかめた。

「男と女が並んで歩く時は、お手て繋いでルンルン、が基本だろーが」
「手を繋いで歩くのは、子供のすることでしょう?」
「そんなことねーよ。むしろ大人になってからの方が楽しいだろ」
「人前で堂々と手を繋ぐのは、子供のすることじゃない」

リディアはいたってまじめな口ぶりで、当たり前だというようにそう言った。軽くあしらおうとか適当にごまかそうという態度ではないようだ。

「随分と大人な意見だな」エッジはわざとらしく関心してみせた。
「だって、セシルとローザはそんなことしないもの」

リディアの言葉を受けて前を歩く二人を見た。先ほどよりも少し距離が離れているためこちらの会話は聞こえていないようだったが、エッジは内緒話でもするようにリディアの耳元で囁いた。

「あいつらはお前の見てない所で、もっと楽しいことしてるんだよ。だから俺たちも……」
「おい、エロ王子」

カインが背後から割り入るように声を掛けた。その表情は鼻から上を覆う竜騎士特有の兜によって隠され見ることはできないが、愉快そうでないのは明らかだ。

「聞こえたぞ」
「なんだよ。盗み聞きか?」
「あまりリディアに変なことを教えるなよ」
「変なことを教えてるつもりはないんだけどな」
「……ほどほどにしてくれ、王子様」

カインは溜め息と共に通り過ぎた。その後姿とエッジの横顔を、リディアはやや不安げな顔で見比べる。エッジは口を尖らせ顎を掻いた。

「お前のせいで怒られたじゃねーか」
「エッジが変なこと言い出すからでしょ」
「お前が何か、もじもじしてるからだろ」

つーかあいつエロ王子っつったな、とエッジはカインの背中を睨んだ。リディアは再び物言いたげな表情でうつむく。ヘソでも曲げたのかと思い、エッジがいつものようにおどけてみせようとすると、リディアの口が小さく開いた。

「ちょうど、あの場所だったよね」彼女は視線を動かすことなく続ける。「さっきエッジが立ち止まった所」

彼女の言っている意味はすぐに分かった。あそこはエッジが倒れていた場所――すなわち彼らと初めて会ったその場所だった。こんな風に言われると随分昔のことのように思えるが、あれからまだ二日と経っていない。

「ああ、そうだっけか?」

エッジは気にもとめていなかったような返事をして、視線を泳がせた。リディアが顔を覗きこんでくるのを感じたが、それも気付かないふりをした。彼女にじっと見つめられると、深い緑色の瞳に身体ごと飲み込まれてしまうような、そんな気がしていた。

「あんな無茶なこと、もうしないでね」

深刻さを帯びた声に、思わず彼女の表情を探る。悲しみと怒りが混ざったような顔だった。

「きっと、すごく悲しむ人、いると思うよ」

戒めるようなリディアの言葉に、エッジは一瞬強い苛立ちを感じた。お前に何が分かる、と口から出てしまいそうになるのを必死で抑え、こっそりと数回、深呼吸する。そして、即席の笑顔を顔にべたりと張り付け、声が尖らないよう注意しながら言った。

「ちっと頭に血が登っちまったんだ。もうしねえよ。だからお前らと手を組んだんじゃねーか」

少し低い位置にあるリディアの顔が、遠慮がちに見上げてくる。エッジは慌てて目を逸らした。


洞窟を抜けバブイルの塔に入ってから、どれくらいの時間が経っただろうか。一行の口数も減り僅かな不安が頭をよぎったその時、一つの部屋に辿り着いた。床一面に魔法陣の描かれた、小さな部屋。

「……さすがは敵の本拠地、だな」

刀を鞘に収め、エッジはどかりとあぐらをかいた。体中の血液がせわしなく駆け巡る。魔方陣に張られた結界のおかげで魔物に襲撃される恐れはないとはいえ、逸る気持ちを抑えるのは今の彼には難儀なことだった。

「しかし、こんな場所で休憩しようなんて、なかなか大胆じゃねーか」
「塔に入ってからは戦闘の連続だったからね」

そう言いながらセシルもゆっくりと腰を下ろす。戦闘中も仲間への気遣いを忘れない彼は、相当疲れているに違いなかった。

部屋の隅ではカインが壁に寄り掛かり、リディアは何やら道具袋を漁っている。エッジの横にいるローザは、先ほどの戦闘で負傷した彼の腕に手をかざしていた。彼らの何気ない動きのひとつひとつが、とても手慣れたものに見えた。

「リディア、何か言ってた?」

ローザが魔法をかけながら小声で言う。すっと通った鼻筋と、派手過ぎずそれでいて華やかさのある目に、しばしみとれた。

「何かって?」
「さっき洞窟で話してたでしょう? リディアと」

カインに怒られたあの会話が聞こえていたのかと思い、エッジは少し身構える。

「ああ、あれは別に、手を繋ごうとして断られただけだ」
「……それは、お気の毒さま」
「あとは、あんま無茶すんなとか、そんなことを言われたくらいだな」
「そう……」

ローザの瞳が僅かに曇るのを、エッジは見逃さなかった。何か言葉をかけるべきなのかもしれなかったが、両親の敵討ちを目前にした彼にはそれほどの余裕はない。

ちらとリディアを見る。彼女は笑顔でカインに飲み物を渡していた。

「あいつはなんか、俺のことを警戒してるみたいだな」
「そんな風には見えないけど」
「俺と話すのを躊躇してるような、そんなことが多いぜ」

何気ない会話をしているときにも、時々深く密度の濃い瞳でこちらを見つめてくる。そんなとき彼女は決まって無言で、言葉ではない何かをぶつけてくるのだ。エッジは天敵を視界に捉えた小動物のように、こっそりと、なるべく自然にその瞳から逃れていた。

そうしているうちに、彼女の瞳が苦手になったのかもしれない。

「……あなた、リディアの目をきちんと見たことがある?」
「え?」

エッジはローザの言葉に思わず声を上げた。いぶかしげに見つめるエッジを横目に、ローザは何かに気付いたように立ち上がる。そのまま含みを持った微笑みをこちらに向けると、ゆっくりとその場から離れていった。

ローザの背中の向こうからリディアが近付いてくるのが見える。腕の傷はすっかり癒えていた。


リディアはエッジの前で腰をかがめ、はい、と水の入った器を差し出した。

「お、悪いな」

早速、口をつける。そういえば喉が乾いていた。皆に水を配り終えたリディアは、次の行動を探すように周りを見渡している。

「やることないなら、お前も休んだらどうだ?」
「あ、うん、そうだね」

リディアはためらうことなくエッジの隣りに座った。こうして見ると、確かに彼女が自分を警戒してる感じはしなかった。

「壁抜けの術、だっけ? あれ便利だね」
「そうだろ? 夜な夜な女の子の部屋にも忍び込めるし」
「やだ、すぐそういうこと言う」
「今度お前の部屋で試してやろうか」
「そんなことしたら、ラムウ呼ぶから」

リディアは拗ねたように膝を抱える。見たところ二十歳近い彼女だが、この手の冗談を受け流す術を知らないらしい。

父と母も、出会った頃はこんな風に少しぎこちない会話を交わしたのだろうか。ふと思い、直後激しい怒りが彼を襲う。エッジは気を紛らわせるように、水の入った器を口へ運んだ。

「エッジは、炎、平気?」

リディアからの突然の問いに手を止めた。おそらく、あんな目にあって炎に対して恐怖心はないのか、という意味なのだろう。

「別に。火遁は俺も得意だしな」

そう言い、残りの水をぐいと流し込む。

「……なら、よかった」

リディアの声質が変わっていることに気付き、エッジは水を飲む格好のまま視線だけを彼女に向けた。彼女はやや虚ろな目で、器を持つエッジの手元を見つめている。

「体の傷は、時間が経てば治るから……」

リディアはつぶやき、吸い込まれるようにエッジの手元へ自らの手を伸ばす。憂いを帯びた瞳にたじろぎ、エッジは動くことができなくなった。リディアの指先が触れる。

「……なあ、人前で手を繋ぐのは……」

やっと出した声もリディアには届かず、エッジの手は彼女の細い両手に包まれた。しっとりと冷たい感触に捕らえられ、エッジは固まる。次第に力の使い方が分からなくなり、持っていた器を離してしまった。床に落ちたそれはカランと大きな音を響かせ、セシルたちの視線が集まる。リディアもその音で我に返ったのか、「あ」と小さな声を発し、慌ててエッジから手を離した。

「あ、あれ? 変だな、私……。ごめん、ごめんね」

リディアは頬を赤らめ何度も瞬きをする。自分の行動に自分で驚き、戸惑っているという感じだった。そしてエッジも、僅かに口を開き目を丸くしたままぼうっとしていた。女性から触れられることに慣れている彼は、このような状況に喜ぶことはあっても動揺することはない。にもかかわらず、知り合って間もない少女から手を握られただけで混乱する自分に、彼もまた困惑していた。

「エッジ、まだ水飲むよね! 飲むでしょ!? 私、注いでくるね」

リディアは床に転がる器を奪い、逃げるように立ち去った。その背中越しに刺さるような視線を感じ、顔を向ける。驚いた様子でエッジを見ていたセシルたちが、彼の顔を見るなりそれとなく目を逸らした。興味のなさそうなカインとは対照に、ローザは面白そうに口の端をゆがませている。セシルは状況がよく分からないといった様子だ。

端から見たら、リディアが自分に好意を持っているように感じられたかもしれない。しかし、エッジは自惚れることができなかった。彼女の瞳が、自分を通して他の何かを見つめていることに気付いたからだ。

リディアが触れていた自分の手を見る。そこには、恐らく彼らと初めて出会ったあの時にできた、小さなアザのようなものがあった。そのうち消えてしまうであろう、小さな火傷の痕。

「はい、お水……」

リディアが申し訳なさそうに器を差し出す。エッジはそれを受け取り、高鳴る鼓動と手のひらに滲む汗を隠すように、ニヤけた顔を作った。

「今度手を繋ぎたくなったら、誰も見てない所でしてくれよ。オトナなんだから」
「もう……ごめんってばぁ」

リディアは恥ずかしそうにエッジを睨む。エッジは楽しげに笑ってみせたが、やはりその目を見ることはできなかった。

2007.11.25
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