そういえば、ローザは少し疲れていたようだった。

今思えば、それはただの肉体的な疲れではなく、実際にはもっと深い、柔らかい部分での疲労感が顔に出ていたのかもしれない。

例えば、思い出や愛しい記憶を消耗して現実と対峙するような、そんな疲れではないだろうか。

「少しだけ、分かるような気がする」
「は? お前までセシルが怖いとか言い出すんじゃねえだろうな」
「違うの。むしろローザは、セシルといることで心が休まるんだと思う」
「だったらなんで……」
「セシルとカインとローザは、小さい頃から一緒に過ごしてきたんでしょう? それなのに、今はカインだけが離れてしまってる。心も体も」

エッジは顎に手を添えてうつむいた。彼らの人生を少しでも掴むため、それらの状況を体に染み込ませようとしているようだ。

リディアは続けた。

「どうしてカインなのか。もし何かが少しでもずれていたら自分がその立場だったんじゃないか。そう考えていたときに、残った二人で安らぎを感じてしまったら――」

この安らぎが何かの犠牲のうえに成り立っているとしたら。

リディアは七歳の頃を思い出す。

セシルに手を引かれ歩いていた小さい自分。リディアの手のひらを摘むような手の繋ぎ方を、彼はしていた。ぎこちなく戸惑いがちなその指先に、彼のたくさんの言葉が詰まっていた。温もりもあった。

いつからかリディアは、その手を強く握り返すようになっていた。そうしないと不安になっていた。時にセシルはリディアに向かって優しく微笑み、リディアもそれに応えるようになった。

そんなときにふと、母の顔が浮かぶ。楽しかった日々が全身を駆け巡り、それから遠くへ行ってしまう。安らぎと引き換えに、母との思い出が自分から離れていくようだった。

心の休息が、罪悪感となる。それでもリディアは、彼の温もりなしには生きられなかった。少女はか弱く、賢明で、何より哀しいほどに幼かった。

あの頃のリディアがもっと大きかったら、いずれセシルの元を去っていたかもしれない。

「俺にはよく分かんねーけど」

言いながらエッジは立ち上がった。

「あのまま地上に戻るよりはよかっただろ。幻界に行ったのも、幻獣のおっさんと戦ったのも、きっといいきっかけになった」
「きっかけ?」
「前に進むきっかけ」

エッジは体をひるがえして船外に顔を向けた。リディアもつられるようにそちらに目をやる。

飛空艇の一番後ろ、縁の部分まで歩み寄って手すりに手を置くと、リディアはそのまま言葉を失った。幻界の入り口となっていた洞窟が目に入ったのだ。今はもう遠く、煮えたぎる溶岩と武骨な岩肌の境界に浮かぶ小船のようにも見えた。

「……寂しいか?」

耳の横で、エッジの低く静かな声が聞こえた。震えてしまいそうなほど優しい声だった。

リディアは首を横に振った。まったく寂しくないと言えば嘘になるが、二度目の別れはもっと辛いものになるだろうと、リディア自身も思っていた。しかしリディアの頭にあったのは、寂しさの度合いについてではなく、この別れの持つ意味合いについてだ。

再び幻界を訪れる時、自分はどんな気持ちで、どんな顔をしているのか。それ以前に、その「再び」が訪れることはあるのだろうか。思考は堂々巡りを繰り返す。

「さなぎみたいなところだったな」

ふいにエッジが、洞窟の方を見つめたまま言った。

「さなぎ? 幻界が?」
「ああ。さなぎの中身を、うっかり覗いちまった感じ」

さなぎ、と口の中で呟いてみた。目に映るものが輪郭をなくし、代わりにぼんやりとしたさなぎの姿が頭の中に浮かぶ。蝶のさなぎだ。幼い頃に見た実物か、幻界の図鑑で見たものか、曖昧な記憶を寄せ集めてそれらしい形を作った。

目を閉じる。暗闇の中央でさなぎが鈍い光を放っている。その背中に小さな切り込みをみつけ、ゆっくりと近づいた。鼓動が高鳴り、同時に逃げ出したいような感覚が襲う。神秘に触れる高揚感。秘め事を隠れ見るような後ろめたさ。未知なるものへの恐怖。

その中にあるものはなにものにも属さず、触れることが躊躇われるほど儚げで、しかし強い生命力に溢れている。それなのに現実味は薄くて、自分などが交わることは決して許されないような気がした。

やがてその切り込みから、柔らかく透き通った羽が覗く。しかし全てが遠かった。そして空恐ろしかった。そこから出てくるのは綺麗な蝶だと、分かっているのに。

瞼を上げると、目の前に細長い傷があった。リディアは床に座り込んでいた。エッジも心配そうな様子で隣にしゃがんでいる。床の傷を挟んで隣り合う。

「悪い意味じゃないぜ。ずっと住んでたお前には、分からないかもしれねーけど」
「……ううん。すごくよく分かった。私も幻界に行く前、子供の頃だけどね、そんな風に思ったことあるから」

エッジの思い描くものと自分が感じたものが一致するとは限らない。それでもきっと、彼と自分は同じような目でそれを見ていると思う。直感というよりも、ある種の連帯感だった。

「俺もな、よーく分かった。お前があそこで育ったってことが。言葉で聞くよりも、ずっと」

返事をせずに聞いた。これから彼が何を言おうとしているのか、少し怖くて身を縮こめる。

「お前がどれだけ大切にされてきたか、お前にとってあそこがどんな場所なのか、なんとなく分かっちまったんだよな。参った」

そう言ってエッジは顎を突き上げた。地底の天井に空はない。もう慣れてしまった暑さだが、それでも汗は、額に首筋に玉となって転がる。

リディアは床の傷に手を伸ばした。その表面にそっと触れてみる。特に熱いわけでもなく、かといって冷たくもなかった。大気と同化した、とても自然な温度だ。ざらりとした感触が、なんだか愛おしい。もっと深いところに触れた。今度は何故か、哀しみが込み上げた。

ふと、さなぎから抜け出る自分の姿が頭に浮かぶ。

さなぎは幻界だ。自分はそこを巣立って羽ばたいているのだろうか。とてもそうは思えなかった。今でもあの切れ目にしがみついて、羽が広がるのを待っている。

「どうしてエッジには分かるの? あそこが私にとって、どんな場所なのか」
「なんだよ。俺、今は喧嘩したくないんだけど」
「そうじゃないの。私にはよく分からないから」

自分のことなのに。そう呟くと、エッジは途端に難しい顔になり、それを誤魔化すように顎の先を指で掻いた。しばらくしてその手を頭の後ろに回し、乱暴に後頭部を引っ掻く。

彼のよく見せる仕草だ。そしてそのあとに紡がれる言葉は、不確かであったり頼りなかったりすることもあるが、嘘偽りのない誠実なものであることが多い。

無意識に出る照れ隠しなのだろう、とリディアは思う。

「あの町のどこを見てもお前がいた」
「私、が?」
「お前がいない時にも、きっとあそこにはお前がいる。俺はそう感じたよ」

心が根付いてる、ということだろうか。この心は、ずっと幻界にあるのだと。彼にはそう見えるのだというのだろうか。


それじゃあミストは? そう聞きたくて堪らなかった。

お母さんは、今もひとりぼっちでいるの?


地面を舞う枯葉を思わせるエッジの瞳が、リディアの胸を緩やかに締め付ける。

彼がどうしてそんな目をするのか、リディアには分からない。しかしその奥に見える憂愁の色が、河の流れのようにすっと、リディアの心を侵食した。それが不思議だった。

いつか彼の瞳やこの感情について、心から理解できるときが来るのだろうか。リディアは雑然とした頭の隅で、ぼんやりとそんなことを考えていた。



船首の方から風に流れて声が届いた。リディアには聞き取りづらいものだったが、どうやらエッジを呼ぶ声のようだった。

声の主はセシルだ。耳のいいエッジがそう教えてくれた。もう少ししたらこちらに来てくれと、そう言っていたらしい。地上へ出るための作業を、エッジが手伝うことになっている。

「もうすぐ空が見えるぜ」

エッジは歯を見せ、セシルと同じことを言った。セシルもエッジも、空の向こうには必ず光があると信じているように、その言葉を口にする。

空が見えるからといって、なんになるのだろう。背中の羽はまだ柔らかいというのに。

うつむき眉根を寄せるリディアのその眉間に、エッジの指先が触れた。

「しわ、寄ってるぞ」
「私、なんか変なの。心がフラフラしてる」

エッジはリディアの顔を覗き込み、軽く息を吐く。

「お前も少し疲れてるんだろ」
「だけど、セシルはずっと私らしかったって」
「それはまあ、そうだな」
「なんか変、なのに?」
「んなこと言ったらお前、昨日からおかしかったじゃねーか。その前も、もっと前も変だった」

リディアは目をしばたたく。

「それって、私は変なのが普通ってこと?」
「そういうことになるな」
「なによそれ!」

エッジは笑いながら立ち上がり、リディアに向かって手を伸ばしてきた。リディアは顔をしかめたままその手を掴み、体を持ち上げる。

「お前はさ、素直なんだよ。自分の中で起こったことを無視できないから、いちいち変になる」
「私が子供だって言いたいの?」
「かもしれねえな。でも、お前はそういうのをみんな受け入れようとしてる。お前が変になるってことは、お前が成長してる証だ」

と、俺は思う。そう付け加えられた言葉はやはりどこか頼りないものだったが、リディアは背筋がしゃんと伸びるのを感じた。彼の言葉を信じることにしたのだ。その言葉を発する前に、彼は頭をがしがしと掻いていた。

「俺たちは前に進んでる。確実に」

柔らかい羽は、少しずつ大人の羽になっている。


◇ ◇ ◇


ようやく捉えることのできた背中を見送る。

あの背中にはセシルの指先のようにたくさんの言葉が詰まっていて、だからリディアは追い求めていたのだろう。

しかしセシルのときとは違う、若草の香りのようなものを伴っていた。その違いが何であるかも、リディアにはまだ分からない。

リディアは顔を上げた。

何もない天井。そう見えていたのは、自分が何も見ないようにしていたからかもしれない。


でも、大丈夫。

もうすぐ空が見える。

2009.6.17
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