はじまりの詩

予想外の来訪者にギルバートは目を丸くした。救護室に現れたのは、白を基調としたこの部屋にはあまり馴染まない小麦色の肌をした男だった。太陽が一番高く昇る、少し前のことだ。

「んだよ、その顔は」
「いや……君がひとりで来るなんて思わなかったんだよ、エドワード」
「エッジでいいって言ってんだろーが」

エッジはふてくされたように言い、ギルバートのベッドに近づいてきた。

旅の途中でここトロイアに立ち寄ったセシルたち一行が、揃って見舞いに来てくれたのが数時間前。その中に彼もいたのだが、夕刻には発つと言っていたので再び顔を見ることがあればきっとその時だろうと思っていた。それがどうしてこの時間に。しかも彼ひとりで。

「忘れ物……ではないようだね。何かあったかい?」

ああ、まあな。エッジは曖昧な返事をしながら近くにあった椅子を引き寄せ、それに腰を下ろした。「座っていいか?」と座ってから尋ねる彼に笑顔で答え、ギルバート自身も半身を起こそうとしたが、エッジがそれを制したのでその厚意に甘えることにした。

「来てくれて嬉しいよ。少し驚いたけどね」
「そういう社交辞令いらねえよ。どうせ、こいつ何しに来たんだって思ってんだろ」

そう言ってエッジは、ギルバートの頭からつま先に向かって素早く視線を滑らせた。一呼吸ほどの間ではあったが、毛布を剥ぎ取りさらにその奥まで覗き込むような、深く鋭い瞳だった。

湧き上がる違和感。しかしギルバートはそれを隠すように笑顔を作った。自分の置かれている状況が分からないときにはそうすることが得策であると、いつからか心得ていた。

「社交辞令じゃないさ。驚いたのも事実。想定外だったからね」
「国のてっぺんに立とうって男は、あらゆる事態を想定しておかないとな」
「確かに、君の言うとおりだ」
「つーわけで、コレ」

エッジはギルバートの枕元に一冊の本を置いた。ギルバートは顔だけでその本を確認する。手を伸ばすのが辛いというほど体調が悪いわけではないが、手に取るまでもなく、独特の装丁からその内容については概ね想像がついた。

「これは――」
「そ、俺の本。思春期からの友」

それは人間の性やら生やら、身勝手な欲望や安っぽい善意を、半ば言い訳のように詰め込んだものだ。今のギルバートにとっては、あまり触れたくはないものだった。

興味がないわけではない。ただ、今の自分とは交わることのない線上に住まうものとしか感じられなかった。

うすら怖いのだ。あまりに生々しく直接的で、彼の愛する詩の世界をせせら笑いながら眼前にいじましい生を突きつけてくる。そういう存在に思えた。

「せっかくだけど、こういうのは……」
「差し入れじゃねーよ。開かなくていい。ただ、しばらくの間預かっといてくれ」

エッジはそう言うと短く息をはき、窓の外へ視線を移した。昼前の柔らかい光が、彼の輪郭を曖昧にする。

ここに到るまでの顛末をどう説明しようか――そんなことを考えているのだろうと思ったが、どうやらそうではないらしい。目線を外に向け、それでいて意識はギルバートを捕まえて離さない。纏わりつく視線は好意的なものではなく、こちらの価値を値踏みするようなものだった。そしてそれを、忍者である彼が病床の男に感づかれている。

心当たりはあった。彼をそこまで追い込み、焦燥させてしまう存在について。それは甘い記憶を呼び覚まし、同時に腹の底に抑え込んだ黒い塊をぐらりと揺さぶる。

「ここには、こういう物を快く思わない女が多いみたいでな」

しばらくしてエッジが、自らの半生を語るかのようにゆっくりと口を開いた。

「しかも俺は、どうやら特に嫌われちまったらしい」
「君は少し、彼女たちを女扱いし過ぎるんだよ」
「そのうえ俺たちの仲間の中に、恐ろしく感の冴えた弓の名手がいてだな」
「……ローザのこと、かな」
「警戒すべきは外部のみにあらずってわけだ。可哀相に俺の友は今、行き場を失っている」

言ってエッジは、慈愛の眼差しで彼の本を見つめた。どこまで本気かわからないが、妙に芝居がかった仕草ではあった。

「それで、どうしてここに?」
「ダムシアンの王子は、極めて気の優しい男だと聞いたんだがな」
「……あらゆる事態を想定した結果、というわけか」
「そういうこと。なかなか飲み込み早いじゃねーか」

悪びれる様子もないその態度に、ギルバートは思わず苦笑した。

未だ彼の真意は分からない。彼がこちらの返事などどうでもいいという顔をしていたからだ。それでも、柄にもなく慎重に糸を手繰りながら何かを見出そうとしていることだけは、不思議と伝わった。

もしかしたらこの本は、弱りきり卑屈になった男に対する、彼からの精一杯の挑戦状なのかもしれない。俄かにそんな愚考が頭をよぎる。しかしそれも、瞬時にして部屋に溢れる白い光へと溶けた。

「いいだろう。君たちがトロイアを発つまで預かるよ」
「悪いな。恩にきるぜ」
「ところで、僕に何か聞きたいことでもあるんじゃないか? さっきから落ち着かないようだが」

言った自分に自分で驚いた。反撃するような気持ちでギルバートは言っていた。素知らぬふりをしてやり過ごすつもりだったのに、どういうわけか口をついて出てしまった。

黒い塊は想像以上に大きく活動的で、そのことに気づきもしなかった自分に嫌悪が走る。彼のことは嫌いではない。破天荒だが勇敢な青年と聞いた。それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。

そう悔やむ一方で、吐き出す快感も欲していた。もはや抑えることが困難なほどに。

「はっきりと言ってもらえればこちらとしても答えやすいんだが、どうだろう」

エッジの鋼色の瞳を静かに見据えた。彼の眉がピクリと動く。

「なら、単刀直入に言わせてもらうぜ」
「ああ」
「リディアと風呂に入ったんだってな」
「…………はあ?」
「入ったんだろ? 風呂に。リディアと」
「いったい何の話をしてるんだ」
「あいつが言ってた。あんたが風呂で歌ってくれた詩が好きだったってな」

確かにリディアと風呂に入ったことはある。浴場の灯りが薄暗くて怖いと言うので、一緒に入り詩を歌って紛らわせた。

だがそれは、彼女が七歳のころの話だ。彼だってそれを分かっているはずなのだが。

「僕はどうすればいいんだ」
「感想は」
「え」
「リディアと風呂に入った感想は?」
「そんな!」

面と向かって聞かれた。七歳の少女と風呂に入った感想を、こんなにも真っ直ぐに。

なんという盲目。

滑稽というよりは奇妙だ。いや、珍奇。珍妙。奇々怪々。ふさわしい言葉が思いつかない。

エッジは当然の権利だというようにギルバートの返事を待っている。どんな目線でどんな言葉で表せば、彼は満足してくれるのだろうか。懸命に模索した。

「……楽しかった」

やっと出た言葉がそれだった。

「それで?」
「リディアも、楽しそうだった」
「……なるほど」
「それから……」

ふと、思い出したことがあった。あのとき彼女と交わした言葉。これを伝えたら彼はそれこそ珍妙な顔をするだろうが、きっとこの場は収まる。ギルバートは言葉を続けようとした。

「ああ、待った! やっぱいい! 言わなくていい!!」

エッジは片手で目を覆いながら、空いた方の手を勢いよく振った。そのままごにょごにょと何やらつぶやいている。

聞きたいのか聞きたくないのか。もうすっかり置いてきぼりだ。ギルバートを支配したあの黒い塊も、恥ずかしそうに奥へ引っ込んでいく。

しばらくしてエッジは落ち着きを取り戻し、糸が切れたようにうなだれ言った。

「分かってる。分かってるから、そんな目で見るな」
「あ、うん……」

ドアがノックされたのは、そのすぐあとだった。太陽の匂いとともに、ひとりの少女が顔をのぞかせた。

「リディア」

救われたような気持ちで少女の名を呼ぶ。実際、救われていたと思う。

「突然来ちゃったけど、平気?」
「ああ、もちろんだ」

リディアははじけるような笑顔を見せ、後ろ手でそっとドアを閉めた。

ギルバートは今度こそ上体を起こそうと、仰向けのままベッドにひじをつき体を浮かせる。途端にリディアの顔が不安げなものに変わった。

「無理しないで。横になったままでいいよ」
「大丈夫だ。だいぶ回復してきたからね」
「ごめんね。今朝会いに来たばかりなのに」
「いや、よかったよ。ちょうど今――」

エッジと君の話をしていたところだ。そう言おうとしてベッド脇に目を向けると、そこにいるはずの男がいなくなっていた。例の本も姿を消し、彼の座っていた椅子だけが辛うじてその名残をとどめている。

他に変わったところといえば、先ほどまでぴたりと閉じていたあの見開きの窓だ。その窓が、風もないのにひらひらとそよいでいる。ギルバートは中途半端な体勢でぽかんと口を開けたまま、短い時間で思考をまとめた。リディアが不思議そうに小首をかしげる。

「ちょうど今、なに?」
「……うん。ちょうど今、退屈していたところだったんだよ」

にこり微笑むと、よかった、と言ってリディアも笑った。薄く開いた窓から安堵の溜め息が聞こえるようだ。

ギルバートはなるべく自然に、ゆっくりと半身を起こす。背中に鈍い痛みが走ったが、表情を変えることはない。初めて会ったときにこれでもかというほど弱い部分を見せたにもかかわらず、彼女の前ではつい強がってしまう。

しかしリディアはその強がりを敏感に感じ取ったらしく、心配そうな面持ちでこちらに近づいてきた。ふと甘い香りが鼻をかすめる。そこで、リディアが何かを大事そうに抱えていることに気づいた。

「それは?」
「あ、これね。そこの道に咲いてたの」

真新しい鉢に植えられた、ふたつの小さな白い花。ひとつは半分ほど開いていて、もうひとつはまだ蕾だった。

「通りの真ん中に咲いてたから、つい」
「鉢上げしてきたんだね」
「迷惑かなって思ったんだけど。このお花にも、ギルバートにも」
「僕にも?」
「うん……。ね、ギルバート。この花、しばらくの間預かってもらえないかな」

ギルバートは可笑しくなって、ふっと笑った。同じような言葉を、ついさっき聞いたばかりだ。あの本は、恐らくただの口実でしかないのだろうが、果たしてこの花はどうだろう。

「構わないけど、どうしたんだい?」
「少しね、踏まれちゃったみたいなの。大丈夫だとは思うんだけど、誰かに見ててもらえたら安心だなって」
「そういうことなら喜んで。大した世話はできないかもしれないけど」
「いいの? 本当に?」
「君の頼みを断れるわけないじゃないか。それに、僕も植物は好きなんだ」

こんな風に頑張ってる花は特にね。そう付け加えて鉢を受け取った。花の向こうに心底嬉しそうなリディアの顔が見える。

「よかった。本当は私が世話してあげたいんだけど、これからどうなるかも分からなかったから」

何気なく発したであろうリディアのその言葉が、ギルバートに重くのしかかった。鉢を持つ手が僅かに震える。

薄布から覗く彼女の白い腕を見れば、まだ新しい切り傷をみつけることができた。今朝見たセシルたちも、穏やかな笑顔を浮かべつつその肉体には連戦の証が刻まれていた。

これからどうなるか分からない。そんな毎日を彼女たちは送っているのだ。それでいて、片隅の小さな命を軽んじることもない。ギルバートはそっと奥歯を噛んだ。

「何でもするよ。僕にできることなら」
「やだ、ちょっと大袈裟」
「いや、本心でそう思ってる」

小ぶりの鉢を膝に乗せ、じっと見つめる。花の根元を見ると、確かに少し潰れて鉢の縁にしなだれかかっていた。ギルバートは吸い込まれるように手を伸ばすと指先でそっと花びらを撫で、次いで柔らかく盛られた土を少量つまんだ。

「……土に触れるのも久しぶりだ」

指先から太陽のぬくもりが伝わる。しっとりとしているのは、朝露の名残だろうか。

どれ程のあいだ、天井を睨む日々を過ごして来たのか。いつの間にかこうしていること慣れてしまっていたのかもしれない。陽の光を吸い込んだ土の温かさも忘れてしまうくらいに。

「ありがとうリディア」

いつだって彼女は、大切なことに気づかせてくれる。

リディアは驚いたように目を見開き、ありがとうはこっちだよ、と言った。

「ギルバートも、早く元気になってね」

それからしばらく、お互い黙ったまま微笑みあっていた。突然大人になって現れたリディアだったが、目に宿る光はあの頃と変わらない。そんな風に思いながら、静かにその瞳を見つめた。

はっとして窓に目をやる。そういえば、すっかり彼のことを失念していた。

「どうかした?」リディアが尋ねた。
「いや、思い出したことがあってね」
「思い出したこと?」
「ああ。リディアと一緒にお風呂に入った時のこと」

リディアは顔を赤らめた。そういう年頃になったのかと思うと、妙に感慨深い。

「七つのときの話よ」
「そうだね。つい最近のことなのに、ずいぶん昔のことのようだ」
「私にとっては、もう昔のことだけどね」
「あのとき僕が言った“予言”、覚えてるかい?」
「覚えてる。だって、おかしかったもの」
「そう? だけど、大きく外れてはいないと思うんだ」
「あれが? 本当に覚えてる? ギルバート、胸を張ってこう言ったのよ」

そこで二人は、声をそろえて言った。


『未来の君の王子様は、きっと僕に嫉妬するだろう』



リディアが部屋を出て十秒もしないうちに、エッジが窓から帰還した。窓辺に置かれた花を落とさないよう注意深く入ってくる様は、忍者というよりは泥棒に近かった。僅かに顔を赤らめているところを見ると、こちらの会話はしっかり聞いていたようだ。

「おい、なんだよあれ」
「ただの思い出話さ」
「聞いてねえぞ、あんな話」
「言おうとしたら止められた。それより、どうして隠れたりしたんだい?」
「あんたといると、いろいろ比べられるんだよ。俺、嫉妬なんかしてねえからな」
「そうか。喧嘩でもしたのかと思ったよ」
「なあ、俺は嫉妬なんかしてないぞ」
「分かってるよ。君は嫉妬なんかしてない」
「なんかムカつくなお前……」

言われたことよりも認めることができないことに苛立っているようだった。こんなに分かりやすく剥き出しの好意なのに、他人に知られるのは避けたいらしい。

そしてエッジは、「それにしても」と言いながらあの花を見た。

「病室に鉢植え持って来るかね、フツー。根付くっつうの」
「彼女らしくていいじゃないか」
「彼女らしい、か。確かにな。あいつたぶん、わざとこの花置いていったぜ」

え、と声には出さず言う。

「頑張る花を見れば勇気が出る。そう思ったんだろうな。あいつの考えそうなこった」

踏まれてたのは本当だろうけど。そう言ってエッジは、そこにはいない彼女を見つめるようにその花を見た。

ああ、という溜め息が出た。彼は盲目的でありながら、きちんと彼女を理解しようとしている。ギルバートの目にはそう映った。

彼が出入りしたことによって大きく開かれた窓から、水のせせらぎと枝葉のこすれる音が聞こえた。涼やかなその重奏を耳の奥で存分に響かせながら誇らしげな彼の顔を見ていると、不思議なくらい素直な気持ちになった。

「嫉妬していたのは僕のほうだ」

独り言のようにつぶやいた。エッジは少し驚いたようだが、何も言わない。

「君が羨ましかった。これからの君たちが」

大切な人がそばにいる。ただその一点だけを都合よく切り抜いて、相手の置かれた状況や辛さを知ろうともせず、自分勝手に嫉妬した。そのことをどうにかして彼に知って欲しかった。そうなってしまった男の哀れさを。

「君には……君たちには生きていて欲しい。生きてさえいれば、どこかで想いは伝わる。生きてさえいてくれれば」
「あほか、死なねえよ。俺もあいつも、あいつらも。あんたは自分の体のことだけ考えてな。その方が、みんな喜ぶ」
「ああ。今はこうしていることしかできないが、いつも君たちを思ってる。そして、いつか世界中に恩返しするつもりだ。僕なりのやり方で」

エッジが横目でギルバートを見やり、口の端を上げた。

「忘れねえからな、今の言葉」そう言って楽しそうに笑った。


結局、エッジはあの本を置いていかなかった。去り際の彼を呼び止め、本について尋ねると、

「あーアレな。もういいわ」

そう軽く一言で片付けた。あの本は完全に、ここを訪れるための“口実”となった。

天井を見上げる。竪琴が弾きたい。無性にそう思う。

体はついてくるだろうか。詩は、まだ歌えないかもしれない。これは体の問題ではなく、いろいろな要因が複雑に絡み合っている。

少し眠ろう。それから、竪琴に触れてみよう。もう会えない愛しい人のために。これからの彼らのために。蕾が花開くまでに、なんとか間に合うように。

瞳を閉じると、暗闇に白い蕾が浮かんだ。

彼女の花。彼女のなかの花。

そしてギルバートは短い眠りについた。

2009.04.25
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