久しぶりの晴天に清々しい思いで朝食を終えた後、斜め前に座るセシルが突然そんなことを言い出した。彼らと出会ってそれなりに時も経ち、そろそろそんな話題が出てきてもおかしくない時期ではあったが、爽やかな気分に水をさされたようで、俺は不機嫌に目を細める。
「いねーよ、そんなもん」椅子に座ったまま行儀悪くのけ反り、投げるように言った。俺の目の前にはまだ食事を続けるリディアがいる。こういう話は彼女のいないところでして欲しいものだ。
「へえ、意外だな。君ならそういう人の一人や二人……いや、十人や二十人はいそうなのに」悪びれる様子もなくセシルが言う。少しは俺の気持ちも汲んで欲しい。
「お前なぁ、俺をなんだと思ってんだ。第一そんなにいたら恋人って言わねーだろ」ハハ、と愉快そうに笑うセシル。こっちは全く笑えねえ。どうにかしてこの能天気な口を塞いでしまいたかったが、何を言っても逆効果になってしまうような気がした。恐るべし天然男。
「俺はな、セシル。こう見えて一途で純情なわけよ。お前は気づいてないようだがな」俺はちらと横目でリディアを見た。彼女はこちらの会話を聞いているようだったが、特に気にとめる様子もなく残り僅かの朝食と対面している。
全く関心を示さないリディアに、俺は焦りのようなものを感じた。リディアが食事という行為をとても大切にすることも、二つのことを同時にできるほど器用ではないことも分かっているつもりだ。それでも、少しは俺のことに興味を持って欲しかった。この手の話を彼女に聞かれたくないという先ほどまでの思いとは見事に矛盾しているが、聞かれてしまったからには何らかの反応が欲しいというのが本音である。
「まぁ、俺の帰りを待ってる女は十人や二十人じゃ済まないだろうけどな」俺はセシルの方を向きながらも、意識はあくまでリディアに向けて言い放った。ほんの少しでも不安げな顔をしてくれればいい。願わくば、懇願するような、すがるような視線を。瞳を潤ませて、上目遣いで。
しかし彼女は、ようやく空になった皿を見つめるだけで、懇願どころか満足げな笑みを浮かべていた。
「王子で二枚目、おまけに実力もあるとなりゃあ放っておく女の方が少ないってもんだ」大人気ないということくらい自分でも分かっている。大言壮語を並べて女の興味をひこうなんていうのは、ガキのすることだ。だがあまりに無関心なリディアを前に、俺は少し意地になっていた。
そんな俺の気も知らず、リディアは表情を変えることなく空いた皿を重ねると、それらを持って席を立った。
「俺だってすこぶる健康な二十六歳男子だ。女に好かれて悪い気はしねえし、人並み以上の経験はあるぜ」背を向けるリディアにも聞こえるように声を張る。すでに負け惜しみの域に達していた。しかしその悲痛な叫びもリディアには届かなかったようで、彼女は種子を付けたわた毛のように、緑の髪をふわふわと揺らしながら遠ざかっていく。
戦わずして敗れたかのような敗北感。俺はガクリと頭を垂れた。
「なんかよくわからないけど、余計なことを聞いてしまったのかな?」ベラベラと一方的にまくし立て、しまいには燃料切れのように枝垂れる俺の横で、セシルは戸惑ったように目をしばたいた。
全くだ。お前のせいで俺のプライドはズタズタだ。
「まぁ、君が女性にとても好かれるということは、良く分かったよ」ハァー、と魂まで抜けてしまいそうな長い溜め息を吐き、より深く頭を下げた。このダメージは熱線よりもでかい。
ふいに何かが視界の端を横切り、テーブルの上でコトリと音がした。顔を上げると、すぐそばにリディアの横顔があった。なだらかな春の丘のような頬に、花畑にも似た紅が差す。誰もが焦がれる桃源が、目の前に広がっていた。
近い。とにかく近い。舐め回したくなるほど近い。
「エッジのカップが空っぽだったから、入れてきてあげたよ」緑色の瞳を細め、リディアは俺に微笑みかけた。俺だけに降りそそぐ、グリーンの光彩。
心臓がキュッと縮み、途端に破裂する。王子という肩書き。忍者としての誇り。それなりに整っているはずの顔立ち。そして積み重ねてきた二十六年という年月でさえ、彼女の前ではまるで力を持たなかった。いまだあどけなさの抜けない少女の前で、俺はただの健康な男子になっていた。
「お……ああ、おー、サンキューサンキュー。かたじけない!」もう何がなんだか分からず、健康な男子ですらなくなりかけている。
変なの、と笑うリディア。テーブルには俺の好きなグリーンティー。それも、リディアが俺のために入れたものだ。少しでも冷めてしまうのが惜しい気がして、俺はまだ熱いそれを、体いっぱい抱きしめるかのように一気に飲み干した。
「リディア、おかわり」文句を言いながらも俺のカップを持ち、茶を入れに行くリディア。こういう素直なところもたまらなく可愛い。彼女の背中を見ながら、俺は自然と頬を緩ませていた。
そんなやり取りを見ていたセシルが、一時の間を置き、「ああ、なるほど」などと言いながら意味ありげに口角を上げた。普段は細かいことにもよく気がつくセシルだが、こういうことにはとことん鈍い。楽しそうな奴の顔が、なんだかやけに憎らしかった。
それからほどなくして、リディアが戻ってきた。「どうぞ」と少し拗ねたように言いながらも、とても丁寧な手つきで俺の前にカップを置く。
なみなみと注がれたグリーンティー。穏やかに表面を揺らし、柔らかい湯気を立ち上らせる。俺は宣言通りじっくりとその味を堪能しつつ、セシルの存在を意識から完全に消して彼女との時間を楽しんだ。
思いがけないリディアの言葉に、口の中で転がしていた茶を空気と一緒にゴクリと飲み込んでしまった。
にこりと微笑むリディア。慌てて咳き込む俺。今の俺は確実に忍者失格だった。