トントントントン――。
まな板の上で何かを刻む、懐かしいリズム。リディアは布団にくるまったまま軽快なその音律を堪能していた。やがてジュウとかジャーという音も加わり、胃を刺激するいい匂いが鼻をくすぐる。
遠い昔のあの頃のようだ。そのうち母が起こしに来るのではないかと、そんな期待さえ持ち始めていたその時、ふわりと柔らかい風が耳を撫でた。
「リディア、そろそろ朝ご飯ができるわよ」控えめで優しいその声は、聞き慣れたものだけれど母のものとは違う。リディアがゆっくり目を開くと、そこには美しい金髪の女性がまぶしそうに微笑んでいた。
「ん……おはよう、ローザ」そう言い、リディアはベッドで横になったまま小さく伸びをする。彼女はまだ『こちらの世界』に戻って日が浅いせいか、時おり寝起きが辛い時もあるのだが、今朝はわりとすんなり目覚められたようだ。えいと体を起こしテキパキと身支度をした。
エンタープライズを改造するため、一行はバロンに来ていた。リディア以外の三人にとっては久々の帰郷となる訳で、リディアは彼女なりの気遣いから一人で宿屋に泊まると言い出し、それをセシルが必死に止め、結局セシルとカインは自室へ帰り、リディアはローザの家に泊まることとなった。
「お母さん、なんだか張り切っちゃってるのよ」ダイニングへ向かう途中にローザが言った通り、テーブルには置き切れない程の料理が並んでいた。
せわしなく動いていたローザの母は、リディアに気付くと、「ゆっくり休めたかい?」と親しげな笑顔を向けてきた。年の割に若く見える彼女は、笑うとローザに良く似ている。その目尻に刻まれたシワを、リディアはとても魅力的だと思った。
それは朝食を済ませ、食後の茶を楽しんでいる時のこと。ローザの母が、このままバロンに残らないか、と言い出した。その言葉はローザと、リディアにも向けられている。そんな選択肢があると思ってもいなかったリディアは、目をパチクリさせながら二人の顔を見比べた。
「私の決意は変わらないわ。母さんの気持ちは嬉しいのだけど」ローザはやや苦しそうに、しかし芯のある声でそう告げた。母はその答えを予測していたのか、それ以上は何も言わず寂しい笑みを浮かべる。そしてリディアに、その笑みを向けた。
リディアは少しの間うつむき、「私にとってこの旅を続ける事は、とても自然な事なんです」と、彼女にしては珍しく落ち着いた声で言った。ローザの瞳が僅かに陰る。母の目は、より寂しさを増していた。
二人きりになった部屋の中で、リディアは流しに立つローザの横顔をじっと見つめていた。観察していた、と言った方がいいかもしれない。
さすがに無視しきれなかったようで、ローザは食器を洗いながら顔だけをリディアに向け、少し困ったように微笑んだ。
「なぁに、リディア? さっきからじっと見つめて」突然の言葉に驚いたのか、ローザは洗い物をする手を止めた。リディアの言う「二人」について考えているようだ。
リディアは尚もローザを見つめる。優しい母、帰る家、故郷、美しい顔、女性らしい仕草、細い二の腕、淡雪のような肌。そして、セシルの愛しげなまなざし。
自分の欲しい物を、ローザは全て持っている気がした。
「羨ましいな。私は、ローザが羨ましい」リディアはにこりと微笑む。彼女の言葉は妬み嫉みの類いではなく、素直に発せられているという事をローザは知っていた。だからこそ、時に痛いくらい胸に刺さる。
ローザはそっと、リディアのおでこに自分のおでこをくっつけた。石鹸の香りがふわりと漂よう。
「私は、リディアが大切よ。とっても、とっても、大事」高貴さを纏う中音の声とおでこから伝わる温もりが、あっという間にリディアを包んでしまった。向けられる全てのものからローザの優しさを感じ、心も体も満たされていく。
やはりこの人にはかなわない。リディアは改めて思い、理由も分からず泣きそうになった。
セシルを独占したい気持ちが幼い心に芽生えたのは、いつからだったか。それでも、セシルがローザを特別な視線で見つめる事に不快感は無かった。ただ、ほんの少し寂しかっただけで。
今なら少し分かる。恋心と呼ぶには幼すぎる想いだけれど、きっとあれが初恋だったのだ。リディアは淡雪の肌を見つめながら、淡雪のような恋心をそっと溶かした。雪が溶ければ、春が来る。自分も少し大人になれるかもしれない。
リディアからおでこを離したローザが、「セシルだってカインだって、あなたの事を大切に思ってるのよ。時々、私が妬いちゃうくらいに」と言って悪戯っぽく笑った。リディアは心地良い敗北感と感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。
洗い物を再開したローザの背中に、小さい声で「ありがとう」とつぶやいてみたが、ローザには聞こえていないようだった。視線の先で、柔らかい金髪が揺れている。
リディアは静かに瞳を閉じた。顔には自然と暖かい笑みが浮かんでいた。
──私はローザが羨ましい。本当に心から。
◇ ◇ ◇
リディアがようやく話し終わると、テーブルに上半身を投げ出しうなだれていたエッジが顔を上げた。
「誰がセシル云々まで話せって言った……?」エッジは不愉快をあらわにして横を向いた。不機嫌の理由がわからないリディアは、首を傾げて様子をうかがう。次第に腹が立ってきた。
「エッジが、自分と出会う前のことを聞きたいって言うから、一生懸命説明したのに!」そう言ってエッジは再び顔を伏せ、ゴリゴリとおでこをテーブルに押し付けた。
「セシルな。絶世の美女に愛される幸せ者の、あのセシルな。澄ました顔してあの野郎……」エッジはテーブルに向かって、まじないのようにブツブツとつぶやいている。彼が怒っているのか落ち込んでいるのか、リディアにはよく分からない。やがて彼の口から、長い溜め息を吐き出す音が聞こえた。
リディアはぷうと膨れて横を向く。ふと、あの時のローザの言葉を思い出した。
「あなたにもきっと、一番大切に想ってくれる人が現れるわ。こうして体が触れた時に今と違う気持ちを感じたなら、その人があなたの王子様よ」あの夜、泣きじゃくるリディアをなだめるように抱きすくめた、エッジの腕。肩に触れたその手に、リディアは僅かな戸惑いを感じていた。あれが、もしかして……。
ほのかに胸を高鳴らせ、リディアはちらと横目でエッジを見た。相変わらずテーブルに突っ伏したままの彼は、「あいつめ、今夜寝てる間にツインテールにしてやる……」とつぶやいたかと思うと、ふいにむくりと上体を起こした。
「ツインテールのセシルに……あんな悪戯や……こんなお仕置を……」うわごとのように言い、「へっへ」と不気味な笑みを浮かべる。
――違う。うん、やっぱり違う。
リディアは安心したようなガッカリしたような気持ちで溜め息をついた。
チャンスを自ら潰した事に気付かないエッジ。静まりゆく鼓動。リディアの春はまだ来ない。