カラン、とグラスが鳴る。中の液体は、氷が溶ける間もなく飲み干された。
エッジはふうっと熱っぽい息を吐く。
「……ここの酒はホントにうめぇな」そう言うローザも、もう五つはグラスを空けていた。
ドワーフ達の作る酒は少しクセがあるが、それが心地良く後を引く。エッジはその気持ちよさに浸りながらも自分が今何杯目を飲んでいるかを意識していたのだが、あまり意味が無い気がして途中で数えるのをやめた。今夜は満足するまで飲むと決めたのだ。
「どうせここでの連泊は決まってるんだ。ゆっくり酒が飲めるチャンスなんて、滅多に無いんだぜ」頬をほんの少し赤らめ微笑むローザは、年齢以上の色気を放っていた。これで二人きりなら言う事ないのだが、エッジの横にはすでに酔い潰れたセシルが眠っている。テーブルに両腕を置き、その上に顔を横向きに乗せたセシルは、口を僅かに開き子供のようにすぅすぅと寝息を立てていた。
「こうして見ると、こいつもまだまだガキだな」ようやく来た次の酒に口をつける。口中に広がる香りを楽しんでいると、ローザが前ぶれもなく口を開いた。
「で、あなたはどうするの?」危うく口に残る酒を吐き出しそうになった。ローザは手持ちのカードを最高のタイミングで出せたというような、満足げな笑みをたたえている。
野郎三人で飲もうというエッジの誘いをカインがあっさり断り、代わりにローザがついてきたのだが、それはこの話をするためだったかと疑った。
「どうするも何も、なんもねーよ」ローザは静かに酒を飲みながら、エッジが話し出すのを全身を耳にして待っているようだった。店の端から、ドワーフたちの愉快な笑い声が聞こえる。
しばらく経ち、口のうまいエッジに話題をすり替えられるのを恐れたのか、ローザは自ら口を開いた。
「あの娘……リディアね、私の事、羨ましいなんて言うのよ」ローザは目を伏せ、グラスを口に運ぶ。その目線が、ほんの一瞬、セシルに注がれた。
エッジは、何かあったのか、と聞こうとしたその言葉を飲み込んだ。彼女達の絆は固い。自分が話を聞くくらいで解決できるようなものなら、ローザはこんな顔をしないだろうと思った。
「傷つけて欲しくないの。リディアの事」女の言う事は時々わからない。今目の前の美女が話している事も。
「回りくどい話をしてもしょーがねーから、ストレートに言うぞ」ローザの目が期待に輝く。
「俺はさ、あいつの事を抱きたいんだ。つまり、ヤりたい訳だな」出会って間もない頃は、そんな風に感じたりはしなかった。女性に触れる事はエッジにとって挨拶のようなものだし、その時の反応で相手の気持ちが少しわかるような気がしていた。だが今は、リディアに触れるのが怖い。彼女の気持ちが伝わってきてしまうのが。
ローザは黙って聞いていた。グラスの中の氷が頼りなげに浮いている。
「だから、あんまり俺を信用しない方がいいぞ」そう言ってグラスに残る酒をぐい、と飲み干した。頭の奥に鈍い痛みを感じる。やはり少し飲み過ぎたのかもしれない。
「こんな事を言ったら誤解されるかもしれないけど」ローザは目を伏せ言った。そして自身のグラスに向けていた視線をエッジに移す。
「あなたの今の発言には好感が持てるわ。とても」上品な口が何を言うのか。エッジは呆気にとられた。
「おいおい、俺は単にヤりたいって言っただけだぜ」変態だの意気地無しだの言われると思っていたエッジは、やや困惑した。
誰かをありのまま受け止めるということは、ローザにとってはこういう事なのだろうか。だとしたら彼女は、精神的には年相応に『少女』なのだろう。
「そんな風に言える男性は、素敵だと思うわ」なるほど、この女性は美しいだけの人形ではないようだ、とエッジは思う。憂いをも大きく包み込んだ愛情深い瞳が、そこにはあった。セシルが夢中になるのも分かるような気がした。
「結局ノロケか」エッジはふと、今頃リディアはどうしているだろうと思い、カインと二人で残してきた事を今更ながら後悔した。あの竜騎士が何かするとは思えないが。
「でも安心したわ。あなた、結構遊んでそうに見えたから」エッジは口の端を上げニヤリと笑う。少女をからかってやろうという悪戯心が顔を出した。
「相変わらず、どこまで本気か分からない人ね」あーあ、ダメかちくしょー、などと言いながら、横で眠るセシルの鼻に豆の殻を乗せた。セシルは目を閉じたままうーんと唸り、眉をしかめた。
「リディアにはそんな事言わないでちょうだい。あの娘は言葉をそのまま受け止めるから」さすがに喋り過ぎた。思った以上に酔っているようだ。
「そろそろ戻りましょうか。心配でしょ? リディアの事」ローザは席を立ち、愛しい恋人を起こそうと優しくセシルを揺する。なんだか見てはいけない気がして、エッジはそれとなく視線を逸らした。
何度か揺すられたところで、ようやくセシルが薄く瞼を開く。
「ああ、ごめん。いつの間にか寝ていたね」寝ぼけまなこの色男が恥ずかしそうに言う。セシルは多少ぼうっとしてはいるものの、酒は抜け意識もしっかりしているようだ。あれだけ寝たのだから当然なのだが。
ローザの足元もしっかりしていた。酒に強いのは本当らしい。二人の様子を伺うと、エッジはおもむろに立ち上がった。
「俺、先に行くぜ。ちょっと寄り道して帰るから、お前たちはゆっくりしてってくれよ」状況の読めないセシルが、不思議そうに首をひねる。エッジが目配せしたところでその様子に変化はなかったが、構わず出口へと歩き出した。しかしすぐに「ああそうだと」呟いて顔だけで振り返り、妖しい笑みをローザに向ける。
「あんたはもう少し飲んだ方がいいな。記憶が飛ぶくらいに」ローザも楽しそうに笑い、言葉を返した。そんな二人のやり取りをセシルが訝しげに見つめる。
その表情に気付いたエッジは、「お前の女は見る目がねーな。俺はセシルの足元にも及ばないんだとよ」と、今度はセシルを指差しおどけた顔で言った。
目を丸くするセシルを満足気に見やると、手をヒラヒラと振りながら店を後にする。ざわめきが遠ざかると、鼓動が耳の奥でうるさく響いた。
店から宿まではさほど離れていないが、エッジはわざと遠い道のりを選んだ。リディアは酒の匂いが嫌いだ。なるべく消してから帰りたい。
思考と思考の合間に、エッジはリディアのことを想う。これはもう習慣になっていて、このうるさい鼓動のように隙をみつけては胸の奥を震わせる。
彼女はもう寝てしまっただろうか。寝ていても無理やり起こして「おやすみ」と言おう。どんな顔をするだろう。たぶん怒る。絶対に怒る。それでも「おやすみ」と言えば、彼女はきっと「おやすみ」と返すのだ。
「単純な奴」つぶやきながら、それでも可愛い寝顔を見たら起こせなくなるかもしれない、などと思ってみる。
起こしたいけど起こせない。
触りたいけど触れない。
もどかしささえ心地よいのは、きっと酒を飲みすぎたからだ。ただ酔っているだけなのだ。
「お酒を飲めば、誰だって素直になるわ」少女の言葉を思い出した。耳の奥に残るざわめきも、うるさい鼓動も、少女の説教も、全て吹き飛ばすように鼻歌を歌いながら静かな城内を歩く。
酒は酒。ここにいるのはただの酔っ払いだ。
◇ ◇ ◇
エッジのいなくなった酒場で「何の話をしてたんだい?」とセシルが尋ねる。そんな彼に、ローザは暖かい微笑みを与えた。
「王子様を酔わせたのは、このお酒かしらね」ローザの揺らしたグラスから、カラカラと涼しい音がした。